溶解 - 身体の消滅

堀朋平の本の登場人物たち(シューベルトとその友人)は、シラーからヘーゲルまでのドイツ哲学によって自らを語る言葉を獲得した(ドイツ・ロマン主義と観念論哲学は不即不離である)、という風に描かれていて、なるほどこれは東大美学・小田部ワールドであり、同時に知識社会学の恰好の題材だから、この線でいけば実証的なヨーロッパ系音楽学と新大陸のニューミュージコロジーを他でもなく我が国の東京大学が接続する、ということで、クール・ジャパン時代の国家戦略になり得るなあ、と思ったりした。世間が何を言おうと知・学問には意味がある、と確信して突き進むことのできる物語である。

しかし、そういう路線が軌道に乗ったからこそ、なのだとは思うけれど、身体を消滅させて精神(ほぼ魂か?)が浮遊することをこいねがう「溶解」の主題が出てきてしまうのですね。セイレーンの歌声に誘惑されないように船の柱に我が身を縛るオデュッセウスの話とともに「溶解」を語る、というやつ。

前に、岡田暁生がアドルノを引き合いにだしながら西欧の黄昏と関連づけてこれを語るのを読んだときにはピンと来なかったが、堀さんがマイヤホーファーに即して説明してくれると、そういうことがあるんだなあ、とは思えた。本のタイトルがオデッセイなのだから、この話が出て来なければならないのですね。

私は、自分があまりこの話に共感できないせいか、普遍的な美のアポリアというよりも、そういう風な引き裂かれが発症する時代・文化と、そうじゃない時代・文化があるように思ってしまう。うたは、常にこういう風な無限と有限の際に置かれなければならんのだろうか?

(「東大生・京大生なら、この話に胸を熱くするはずだ」という風な想定が、阪大生にはよくわからぬ。偏差値の高い大学のナンパ・サークルの暴走に世間が異常に強い関心を示すのと表裏一体の、理性と欲望なるものをめぐるホモソーシャルな紋切り型ではないか、という疑いをぬぐえない。でもまあ、かっこいいアキレウスと冴えないオデュッセウスがエピックとしてはワンセットで、演劇は前者、読み物文学は後者に強い関心を寄せてきたのだから、西欧文化論としては避けて通れないのでしょうか。)