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敬称と肩書き、音楽と軍隊

ラグビーの平尾は同志社で「先輩も呼び捨てでいい」という方針だったそうだが、その精神で強い人間関係を目指すのであれば、敬称を略すだけでなく(たしかに山田治生のつぶやきを読み直すと「昨日はバッティストーニさんにお会いしました」式のなれなれしい敬称は使われていない)、そこを徹底するのであれば、もはや肩書きも不要ではないかと思う(「大野和士音楽監督は……」といった書き方が用いられているようですが……)。たまたまある楽団と音楽監督なり常任指揮者なりという肩書きで契約している指揮者や音楽家が、はたしてその役職にふさわしい仕事をしているかどうか、ということを問うときには、肩書きを外した大野和士やゲルギエフや小澤征爾を語ることになるはずだから。

(平尾が敬称とともに肩書きも外していい、と考えたのかどうか私は知らないし、だから彼の「強さ」がどういうものだったのか、私にはよくわからないが、先輩後輩というのを取り去って肩書きを残すような人間関係は、軍隊風の強さを目指すことになると思う。山田氏が平尾の挿話をきっかけにして夢想するのは、おそらくそういうものだろう。でも、音楽はそのようには編成されない。個々人の出す音が「絶妙に融け合う」背後には、上意下達ではない人間関係の複雑怪奇な機微がある……と私は思う。)

私は、(別にここで私のポリシーを語る必要があるとは思わないが)批評は当然そういう風に敬称なしで書くが、ブログでは、敬称を付けたり付けなかったりする。敬称のない突き放した距離で書く方がいい場合もあるし、敬称のある人間関係を設定して書くほうがいいと思える場合もある、と考えるからです。(「だ・である」と「です・ます」も、ブログでは一つの文章のなかで自由に混ぜます。ブログは、批評の練習ではないし、「私はこういう文章を書きます、お仕事ください」というプロモーションとしてブログを書いているわけではないですし。)

でも、原則として肩書きには頓着しない。とりわけ、「山田マエストロは……」というように、指揮者は全員、敬称だか何だかわからない「マエストロ」の呼称を付けて書く、という音楽ジャーナリズムの最近の風習には強い違和感を覚えます。