劇場と興行と出版の分離

マイヤベーアのグラントペラはパリ・オペラ座の劇場運営に組み込まれた「システムの一部」であり、オペラ座の黄昏(もしくは劇場・興行形態の変容)とともに衰退した。

ワーグナーのバイロイト劇は、おそらくグラントペラの「システム」に意識的に対抗する形で、台本・作曲・指揮・演出・劇場運営を音楽家が一元管理する究極の中央集権モデルを打ち出した。パルジファルをバイロイト以外では上演させない、というところまでワーグナーの生前の一元管理は徹底していた。

(マイヤベーアとワーグナーの間には、「もの」の管理と「ひと(の精神)」の掌握、という風なターゲットの違いもありそうだが、それはまた別の話。)

一方、ヴェルディとリコルディは、楽譜の権利を出版社に集約することで、いわば楽譜出版と劇場・興行を分離した。どの劇場で新作を初演発表するか、という判断のイニシアチヴを出版社が握ることは、著作権管理とともに、この体制の両輪だったのだろうと思う。

19世紀の社交界に支持されたのはグラントペラ。世紀末の芸術至上主義を鼓舞したのはバイロイト劇だが、現在に至るオペラの安定した興行を支えているのはヴェルディとリコルディのビジネス・モデルなんですよね。

現在では、もはや劇場運営と興行の主催者が同一とは限らない。おそらくロシア人のカンパニーがパリやロンドンで常打ちしたバレエ・リュスが、劇場と興行の分離、インプレサリオという地位の先駆だろう。だから、今ヴェルディ/リコルディのような作曲家/出版社の優位を目指すのは時代遅れだとは思うけれど、オペラのような巨大な興行では、一元管理や閉じたシステムの構築よりも、責任とリスクを分散するオブジェクト指向めいた設計のほうが、むしろサステイナブルなのかもしれませんね。

(興行は軍隊ではない、という理論をこのあたりから組み立てることができるのではあるまいか。経済を学んた音楽ライターさんあたりには、「音楽の素晴らしさ」「音楽は特別」みたいなキラキラ話ではなく、むしろ、こういう風な興行の経済にこそ、「品性下劣」と言わずに踏み込んで欲しいよなあ(笑)。)