写本・証文・アーカイヴ

いわゆる複製品はアーカイヴしない、という原則を立てる機関が結構ある。

俗流複製論で、万物はすべからく何かのコピーである、とか言っても、著作権の取り扱いが商業的な利害と絡んでいる場ではほとんど無力な放言、好意的に受け止めたとしても素朴で実現可能性の極めて薄いユートピアの夢想で終わるわけだが、素朴なユートピアの夢想ということで言えば、そもそも、オリジナルとコピーの区別、というのがアーカイヴの管理・運営から考えると、幼稚過ぎるのかもしれない。

写本でしか伝わっていない書物が過去に遡れば世の中にはたくさんあるわけで、現存する唯一の写本を「オリジナル」ではないから破棄する、というようなことを主張する人がいたら、それは、ただのアホだ。そして、「オリジナル」なるものを、無根拠なアウラの源泉として敵視する複製論と、アウラで商売する卓越性とか唯一性への信仰が対立することになっているようだが、商売ということで言えば、アーカイヴというのは、揉め事になったときの担保となる証文を保管するところからはじまっているわけですよね。証拠や証文もなしに、何の学問をやり、何の商売をやろうとするのか、ということで話は終わってしまうような気がする。

アーカイヴから何かを捨てる、というのは、存在を否定する、というのではなく、廃業する/させる、という文脈で考えるのがいいのかもしれない。「除籍」「登録抹消」は、たぶん、「上場停止」みたいなものだ。

フィジカルなことをメタフィジカルに意味づけようとすると、アーカイヴをめぐる話は迷走する。(迷走させたい人、というのが世の中にいるので、それが一番要注意、なんでしょうね。)

文学・歴史・ヒューマニティズは、アーカイヴを介して物理に隣接しているのかもしれない。

今さら新発見のように言わなくても「言葉と物」とはそういうことだ、ということになるが。

そしてその一方で、複製・再生産の歴史を取り扱おうとするのであれば、理論として再生産を擁護するだけでなく、複製と再生産のアーカイヴを物理的に作って、物としてデモンストレーションしたらいいのに、と思う。コピー機とコピー書類の博物館とか。

録音技術の歴史もそういうことで、いきなり通史を記述しようとするとあっちこっちにほころびを生じるのは、ちゃんとしたアーカイヴの下支えがないから、足腰が弱くなっているんじゃないだろうか。