地方都市での巡業公演が批評対象になる国とならない国はどちらが「文化的」なのでしょうか?

東京のオーケストラの巡業ツアーの訪問地のひとつに過ぎない都市に音楽記者なり音楽評論家なりがいて、その見解を発表する媒体がある、というのは、それだけで立派なことだと思いますけどね。

来日巡業ツアーで全国の複数の都市で公演があった場合、そのうちのいったいいくつの公演について批評が出るでしょう。地元の音楽家の公演を取り上げて批評する地方紙が、どれくらいありますか?

文化の価値観の多様性ということを言うのであれば、そもそも、東京の音楽雑誌で仕事をしている人間と、ドルトムントで音楽評論を書く人間とでは、よってたつ前提が全然違うだろうと思うのですが、相手にその言葉が届かないところで、山田氏は何をいきり立っているのだろう。

ちなみに、朝比奈隆がベルリン・フィルを指揮した1950年代の演奏会に対する同地の新聞評を読み比べると、シュトゥッケンシュミットの評は飛び抜けて情報が正確で(たぶん数年前から吉田秀和と交友があったのと無関係ではないだろう)、彼の判断は、今読んでも、きっと朝比奈がベルリン・フィルを振るのを聴いたら、そういう感想になるだろうなあ、と納得できる水準でバランスが取れている。

朝比奈隆はその後も毎年のように渡欧して、その批評の訳が関西音楽新聞にいくつも出ているが、なかには地方紙のへたくそで酷い批評もある。

音楽会というのは数が多く、それをフォローしようとすると書き手はピンキリになる。それは、18、19世紀のヨーロッパの音楽雑誌から現在の東京まで、たぶん、いつでもそうだろう。そのうちの(あまり出来の良くないらしい)ひとつだけを取り上げて、もっともらしい説教を仕立てようとしても無理筋だと思う。

批評という文化の意義と役割がよくわかっていらっしゃらないのではなかろうか。

(東響に山田氏が同行取材してドルトムントのその公演を現場で聴いたうえで、「あの批評はないだろう」と抗議する、というのであれば、ご自身の意見をその掲載媒体に投書するなりして、論争を申し込む、というようなこともできるだろうけれど、自分ではその公演を聴かないでおいて、きっとそんなはずはなかったはずだ、みたいなことを言ったとしても、その意見は、たとえ相手に届いたとしても説得力はないでしょう。何の役割を買って出ようとしているのか、一連のコメントはさっぱり意味がわからない。そんな態度は、グローバルでもなければ国際的でもないし、もちろん、文化相対主義でもない。「こんな批評を真に受けちゃいけませんよ」と日本語で日本人に向かって言っているだけの内輪の言語だ。)

さらに余談だが、音楽(家)の国際交流つながりということで言うと、ブリテンが来日したときに見た隅田川は梅若流の家元一家の公演だった、というのは生前からよく知られたことだったようで、古い音楽雑誌にも書いてある。ことさら新発見ではなく、今よりずっと小規模だった日本のクラシック業界では周知の事実だったはずです。今は、いろんな人が自己申告で「業界人」の顔をする時代になっていて、それはいいことなのか悪いことなのか……。

[追記]

こういうときこそ、その批評を書いた人物を東京へ招聘して、東京のコンサートを色々聞いてもらって、日本の関係者と公開討論の場を設ければいいんじゃないか。その体験をドルトムントの記者だか音楽評論家だかが日本探訪記としてドルトムントの媒体に発表してくれたら、立派な「草の根国際交流」になるじゃないか。それは、事前に日本に呼んでおいて、「わたしたちが行ったときにはヨロシクね(はあと)」みたいな顎足つきのネゴシエーションとはまったく意味の違う立派な文化事業だと思いますけど、どうですか?