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戸籍がある島国のディスタンクシオン

京都市内だが洛外に生まれ育った井上章一は、京都洛中の人は洛外を差別して平気で嫌味を言う、という話を「京都ぎらい」で書いて話題になったが、へたくそなオーケストラしかない街の評論家が何を言うか、という山田治生の切り返しは、こうした京都人の嫌味を連想させる。

図式化すると、山田が言うのはこういうことだ。

ある属性に着目すると、Aという地域には○○する権利があり、Bという地域にはその権利がない

見れば明らかな地域差別である。出生地もしくは所在地によって、東京のオーケストラを批判する権利がある評論家とその権利がない評論家の区別があるはずだ、と言っているわけですからね。

山田は、すぐに「と言ってしまってはオシマイだが」という風にエクスキューズして、直接話法でこれを主張しているわけではない。しかし、そのようにエクスキューズすることによって、逆に彼が、地域差別というものは、上品な私は決して口にはしないけれども、ひとたび口にすれば必勝必殺のキラーパンチになり得る、と思っていることがわかる。

でも、たぶんこの山田流キラーパンチは、ドイツ人に通じるとは思えない。戸籍制度もなく、とりあえず今そこに住んで住民登録しているだけに過ぎない街がどこであるかということによって、おのれの言論が制約される、などということは、市民と呼ぶに足る一定水準以上のインテリには想像も及ばないだろう。

ナショナリズム(土地 nation に対する愛着、もしくは同じ土地に住む者の連帯)は、住居の自由(「どこに生まれてどこに住むかは偶有的だ」)という前提があるがゆえに、人工的な観念として逆に訴求力があったわけですよね。ナショナリストは、自然にそのように生まれるのではなく、自らの意志でそういう立場を選び取るものだ。

だから、そのような明示的な宣言なしに、ごく普通に書かれた音楽評論に対して、「お前はドルトムントという街に縛り付けられている人間として、それにふさわしく振る舞いなさい」と言われても、ポカンとするほかないだろうと思う。

さらに言うと、京都人の地域差別は、本当にキラーパンチなのか、というのもはっきりしない。もしかすると、それは必殺技というより、出会い頭の挨拶代わりのジャブかもしれない。「この程度のジャブで退散するような者に用はありません」ということかもしれず、平気でかいくぐって懐に飛び込むと別の景色が見える可能性がある。

山田氏が、そのようなジャブを繰り出す側の人なのか、繰り出された思い出をもつ人なのか、私は知らない。

彼が地域差別を「必殺技」だと思うに至ったのは何故なのだろう?

京都ぎらい (朝日新書)

京都ぎらい (朝日新書)