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学問は口語体という文章語で話す

論文だけじゃなく口頭発表もそうですよね。私は、そういうのからしばらく遠ざかっていたこともあって、いまいち上手じゃなかったりするが、それはともかく、「学問は文章語で話す」というのは、克服されるべきダメな状態なんじゃなくて、そういう風にしないと学問はうまくいかないのかもしれない。

ただし、気をつけないといけないのは、文章語が放っておくと話し言葉と乖離してしまうということ。書き言葉(そして書き言葉で話すときの話し方)にもメンテナンスが要る。問題は、どうメンテナンスしたらいいか、ということが自覚化されにくい、ということだと思う。哲学者が「勉強本」とか「自己啓発本」とかを書きたくなるのは、文章語のメンテナンス、発話可能な文章語のアップデートをちゃんとやる人がいない状況と関係があるかもしれない。

本当は作家とかもこのあたりに関わっていけばいいのだろうけれど、高橋源一郎とかみたいに、「口語体は文章語であって日常の話し言葉とは乖離している」を「そのような口語体を持ってしまったのは、近代日本文学の病である」という風な日本特殊論・近代日本批判につなげる運動があって、それは、旧かなづかいへ帰れ、の保守に対する革新として機能したところがあるのだろうけれど、音声中心主義批判という西欧のキリスト教批判の策略と、いつでもどこでもラフに話すのがオレのスタイル、というのは別の話のはずなのに、そういうのがいつしか風俗としてのポモと接合しちゃった。

昨日、他の人の学会発表を見ていたら、英語に関しても「文章語の文体で話す」ができないネイティヴ・スピーカーがいて、「英語で授業をしましょう」とか、そういう最近のグローバル化で、どうやらそういうダメなネイティヴさんに、英語で話すときの練習台、という、新たな役割が生まれつつあるようだった。他者を自分の語学力向上の練習台として道具的に使用するのは、する方もされる方も野蛮だと思う。

英語だろうとドイツ語だろうと日本語だろうと、「文章語の文体で話す」というモードがちゃんと身についていない人は、やっぱりダメだと思う。本当は、作家もそうなんじゃないか。

昭和期の音楽物語のベースになっている散文の朗読(主に放送で人口に膾炙した、と言えるのかもしれない)のことをあれこれ考えて、そういう意識で眺めると、学会誌で書き言葉の取り扱いが無駄に堅苦しくなっているのに見合って、この学会は、壇上の語りの文体を快適円滑にメンテナンスするのもいまいち上手じゃない感じがするなあ、と思った。

(たとえば、セッションの司会者や発表者に、大会本部が事前に告知しない縛りを平然とあとから課したり、学会の慣例がどうだこうだとか、編集部からの命令だとか、そういうのが次から次へと振ってくると、発表の場で「文章語による語り」という、決して天然自然ではない文明の作法を円滑に維持する、という肝心の仕事への意欲が削がれますよね。それは、大学の業務が忙しくてコンサート活動ができない実技の先生、というのと同じ病だと思う。

そうして、ちゃんとした言葉で話すことができる人たちは他の仕事で忙しく、数時間滞在で別の場所へ、という風になるのは、なんだか、出演者にチケットノルマを課すことで維持されている演奏団体がどうダメになっていくか、というのと、同じ現象を見るかのようだ。

私も、別に売れっ子ではありませんが、自分のセッションだけ出て、すぐに帰ったし……。

きちんとした作法で質疑応答に参加する数人の方々がいて、それは、孤塁を守る感じで頭が下がりましたが。)