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競技と儀式

compete の原義は「共に探す」なのだそうで、まあ、concertare の語義は、競う、協力する、どちらとも言えそうだ、というのと似た話(concerto の起源を語るときの言い古されたネタ)なのでそれはいいのだが、compete であれ、concertare であれ、それは競技場や舞台のような衆人環視の場における振る舞いを指している。競技場や舞台に上がる前に徹底的に「根回し」をして、競技場や舞台に上がったときには既に結果が決まっている、というのは、もはや競技やパフォーマンスではなく、共同体の儀式だ。

音楽は音を出すというシンプルな行為がどのように広汎な帰結を生むかを見極めようとするゲームだとすれば、知(学問)とは論理という同様にシンプルな方法の広汎な帰結を見極めるゲームだとひとまず言えるかと思いますが、私が問うているのは、学会という制度を私達(あなたたち)は、そのようなゲームの競技場・舞台として運営したいのか、それとも、そういうガチの競技はどこか他でやってもらって、現有メンバーでどこかしらそのような競技と似ていなくもない儀式をやれたらそれでいい、と思っているのか、どちらなのでしょうか、ということです。

儀式が無意味である、と言いたいのではなく、私達はしかるべき儀式の氏子集団である、というのであれば、正直にそういう風に言えばいいのに、と私は思う。

まあ、別に正直に当人が申告しなくても、何が起きるか、一度実際に行けばわかってしまうのは、音楽会も学会も同じことだから、別にいいですけど。

大栗裕の音楽物語とはどのように上演されるエンターテインメントであったのか、ということを検証可能な文体でまとめた文章を記録が残る形で生成・公開することができれば、それで、わたくしの目的は達しておりますから。

この先生はあくまでこれを競技として受け止めていらっしゃるんだなあ偉いなあ、とか、こいつは、競技と儀式の違いを知っているくせにすっとぼけているんだろうなあ悪人だなあ、とか、この人は儀式のなかでしかるべき役割を演じられるのが嬉しいんだろうなあ、とか、これも音楽会と同じく、そこで繰り広げられる人間模様はだいたいわかるし。