事実と抽象、朗読というコスプレ

大栗裕については事実の裏付けのあることしか書かない、という縛りをわたくしは自分に課していますが、大栗裕というおっさんは、いわゆる「抽象化」(華麗なる前衛実験音楽のような)とは違って、「ゴキブリのように地を這う」(娘さんが「パパの音楽」のことを実際にそのように形容した、もちろんdisではない愛情を込めて)という仕方で抽象に至ったのではなかろうか、そういう風に話を仕上げたいものだ、という思いが私にはある。だから大阪俗謡による幻想曲を論じるときに小泉文夫を引き合いにだすし(阪大の雑誌に書いた論文の注に小泉が出てきます)、同じ意図をもって東北の地震の頃からずっと柴田南雄を仮想敵に設定しているわけで(吉田秀和は同じ仕方で朝比奈隆を語るときには丁度良いヒール役だが、大栗裕の作曲を語るときには柴田のほうがたぶん具合がいい、でもこれは柴田南雄をその可能性の中心で再評価するのと矛盾しないし、山田和樹は今信じがたくいい仕事を続けていると私は思う)、次は朗読とマンドリンオーケストラの音楽物語をやろう、と決めたときには、川田順造の口頭伝承論を引き合いに出せるところまで行きたいものだ、という風に秘かに目標を設定しておりました。この半年ぐらい、分厚い平凡社ライブラリーの二巻本をずっと手近に置いている。

(もちろんこれは、その先で「聴覚的転回」なる議論をこざかしい悪人扱いしてやろう、という「策」でもある。そこまでいくと、大坂の陣で豊臣方が大勝利、というような偽史になってしまいそうだが(笑)。)

残念ながら今回は、ちょっと強引に「せりふの構造」をもちだすところで力尽きて、茶臼山の家康が肝を冷やす、には至っていませんが、たぶんここで力尽きたのは、今回「うた」と「かたり」を区別してその関係を分析する準備が整っていなかったせいだろうなあ、と自己分析しております。川田順造のモシ族の主題による構造主義人類学は、そこのところを、九鬼周造の「いき」の構造分析さながらに精緻にやろうとするところが偉いわけですもんね。

口上と朗読、という項目を立てたのは、川田のもうひとつの主題であるところの落語(枕と噺の関係)を想定しておりまして、川田を出すには至りませんでしたが、子供に語りかける「口上」こそがアウトリーチ系パフォーマンスの指標である、という視点を出したことで、大栗裕を同じ1918年生まれのレナード・バーンスタインの、いまではアウトリーチの古典とされているらしいヤング・ピープルズ・コンサーツと比較する土俵が見つかったのは嬉しい副産物でした。

戦後日本はアメリカの指導で「民主化」したことになっているわけだが、1950〜60年代の北米には舞台上で魅力的な口上を述べるバーンスタインがいる一方で、同時期の日本の洋楽の舞台、パフォーマンスは、司会者の口上に枠づけられて、口上とは分離されるのが通例だった。(だからそのような仕切りを音楽の側が乗り越えようとする「アウトリーチ」が、新鮮な課題としてあとで浮上することになる。)

そして、これはあとで気付いたことなのだが、そのように司会者の口上と切り離されて、いきなり舞台上で物語る朗読者は、どこかしら、「コスプレ」を思わせる。アンデルセン童話であろうが、「ごんぎつね」であろうが、平家物語であろうが、音楽物語という同じフォーマットで語れてしまうのは、コスチュームプレイにおける「赤毛もの」「まげもの」といった区別を連想させる。音楽物語は、映画やテレビでそうしたコスチュームプレイが普通の娯楽であった時代の、「声と音のコスプレ」なのかもしれませんね。

(声優や女子アナの周囲に「萌え」が発生するのは、いわゆるアイドルさんのヴィジュアルなコスプレと対になる「audile なコスプレ」(敢えてジョナサンを使ってみる)に他ならない気がしますし。)

どうやら私は、エンタメの領域に足を踏み入れつつあるようだ。涼宮ハルキ、ヘンデルのオラトリオと並べて同じセッションになったのは、案外、正解だったのかもしれませんね。柿沼先生は、まったくそういう風には進行してくださらなかったわけですが……。

(ブラタモリの桑子とその次の人の違いを考えればわかるように、進行役がヴィヴィッドであるかどうか、ということは、コンテンツ制作者の制御の及ばないところでコンテンツの死活を決めてしまうことがある。)

わたくしの今回の発表は、内容の面でも、実際の発表という行為の面でも、どうやら「司会者」というのが隠れテーマであったようです。ゴキブリはゴキブリなりのやり方で「メタな場所」に到達してしまうのですよ(笑)。

(あまりにも座が「寒い」ので、発表の前に即席で口上を付け加えてしまって、それで発表時間が足りなくなったのは、舞台に立つ発表者としてのわたくしの未熟さとして反省すべき点だと思っていますが、どのようなお座敷であっても、出ると決めた以上は鉄面皮にやり通す、というような、キャバレーや商店街での「営業」の逸話、昭和の演歌歌手・お笑い芸人の定番の芸談は、ダメな学会でどのように発表するか、「プレゼンテーション入門」として、人文凋落の21世紀の研究者にも役立ちそうですね。そしてこのあたりの機微を熟知しているから、関東の「学会人」はシンポジウムに「燃える闘魂」のコスプレで登壇したりするのでしょう……。アニマ・アニムズムが死滅していないこの島らしい風景、なのかもしれませぬ。)