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その学会のプロタゴニストは誰か

もし司会者が口頭発表をコントロールしたいのであれば、発表者が司会者に挨拶に出向くのではなく、司会者が発表者の楽屋に挨拶に来るのが筋だろう。口頭発表において、主役は発表者であり、司会者はスタッフせいぜい脇役なのだから。

そしてスタッフや脇役が失敬なことを言ってきたら、無礼者!とプロタゴニストから一喝されるのが正しい。

前のエントリーにもかかわらず、というより、前のエントリーが成り立つからこそ、同時に、パフォーマンスの論理と倫理とはこういうものであるということを忘れてはならない。場の中心に立つ者に敬意を払うのは、その人物が偉いとか強いとかいうことではなく、場の中心に立つという役割が敬意の対象です。目上とか長幼の序とかいうものは、そのような場においては停止する。

(停止させずにごり押しすると、それは単なるセレモニーで終わってしまう。)

論文盗用などという事件があったり、書類書きの事務作業の理不尽が話題になったりして、アカデミズムの「書く」行為にここ数年注目が集まったが、音声中心主義とは無縁なパフォーマンスとして、スピーチ・口頭発表という行為もまた、書くことと並ぶアカデミズムの両輪ではないかと私は思う。プロタゴニストがパワポの陰に隠れようとしても、それではダメな場面がある、ということである。

(中京大学は、パソコンの利用環境だけは妙に整備されていたが、CD・DVDを再生しようとするとポータブルな器械を慌てて持ち込むしかない状況だった。リモコンは紛失しているし……。去年行った精華大学も、古いものが使いにくい「前のめり」な場所でしたねえ。そういう環境で「メディアの考古学」は難しいのではないかしら。

どういう出入り業者と結託しているのか知らないが、最近の大学のオーディオ・ヴィジュアル環境は、明らかに歪んでいると思う。知の経済的自立が確保されない環境では、知の物質的自立が怪しくなる。頭でっかち、というのは、そういう状態を言うのではないか。「もの」を大切にしないとバチが当たる。シミュレーションですべて解決、省スペースでお値段お得、とか、新製品のキャッチコピーに学者が真っ先に踊らされてどうするか。だから「キラキラ」とか言われまんねん。)