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エスノサイエンスを認めない日本楽理の不自由

一次資料の発掘と分析、というのは、日本楽理の得意技である。フローベルガーの第一人者、とか、バッハ研究所勤務、とか、ということは、日本楽理の社中では周囲を跪かせるオーラになる。(その当人は現場で揉まれていらっしゃるに違いなく、必ずしもご自身を「権威」とは思っておられないケースのほうが多いと思いますが。)

その論法でいくと、大栗裕の大阪フィルが保管している楽譜資料は、現在、わたくしが管理の実務担当ですので、わたくしは「大栗裕研究の権威」なのかもしれませんが、そういうアホな風習はやめましょうよ、と提言するのが、研究者としての白石知雄の仕事だと思っておりますので、今回の学会発表では、資料を管理している大栗裕記念会サイトへのリンクを参考文献に記すに留めて、資料の詳細(管理の実務担当として知り得た事実)をあらいざらい話す、というスタイルは採用しませんでした。

(様々な資料を用意してご報告しようと準備しても、ぞんざいにしか扱われずに腹が立つだけで終わる、というのは、既に、昨年の増田聡が司会をした西日本支部例会で経験済みですので、今回は別の方法を採用しました。)

資料の一覧は既に順次公開しておりますので、それをネットで探して、これが見たいというのをオーダーしていただければ、お出しします。それは、アマゾンで本を買ったり、公共図書館を利用するのと同じ手順ですし、一次資料の活用が「情報」として特別なものではない、という情報社会の基本に沿って行動していただければいいだけのことで、「○○学の権威」みたいな儀礼は、別のモードに書き換えられてしかるべきだと、私は思います。

(そしてこれは、一次資料の情報管理という点に関して、情報社会は、もはや「学会」の統治を必要としていないかもしれない、ということでもあろうかと思いますので、「学会」様には、ちゃんとした現状認識と危機意識をもっていただきたいものです。)

ただし、このように日本楽理の「内部の人間」が一次資料にアクセスするのは「お手柄」と高く評価されますが、他方で、資料を実際に管理している「外部の人間」に対する日本楽理の態度は冷たい。

実務担当の立場で言わせてもらえば、日本楽理の人たちがアーカイヴ担当者に接するときの態度は、しばしば、とても横柄ですね。これが見たい、というリクエストをするときに、その資料を実際に取り扱っている人物がその資料について何かの知識を有している、という風には想定しないらしい。資料の分析は我々学者の仕事であって、お前達は「もの」を我々の指令に従って動かせばよい、みたいな前提で動いているように見えます。

その典型が、日本音楽学会名義で行われた「日本の音楽資料」というプロジェクトであった、と、私は認識しています。実際には、学会をあげてのプロジェクトではなく、久保田先生とその配下の人たちの仕事であったということを、「研究者としての白石知雄」はもちろん承知しておりますが(笑)、実務担当としては、立場上知らないふりをして、横柄であったり、世間知らずの院生の無茶ぶりであったりする申し出を事務的に処理して、ストレスフルなことでありました。

で、結果を見ると、報告書では、大栗文庫にこれだけの数の自筆譜があると回答しているのに、統計に載せてなかったんですよね。想像するに、久保田氏以下の人たちが大栗裕という人物を知らなくて、大栗文庫が色々回答しているけれど、統計のバランスが崩れてしまうから載せないでおこう、ということになったのかもしれない。

つまり、そもそも大栗裕という名前についての先行理解がなければ、数字が告げる事実がねじ曲げられてしまう、ということです。

私が、大栗裕という名前を他でもなく日本音楽学会の、他でもなく全国大会に登録しておこう、と考えて、自腹を切って名古屋まで出向いて話をしたほうがいいと判断したことの、これがひとつの背景ではあります。アホには実力行使しかない、ということです。

そしてこれはどういうことかと言うと、日本の民族音楽学がエスノ・サイエンスを標榜して、現地のインフォーマントの知性への信頼なしにはフィールドワークは不可能である、と随分まえから主張して、なおかつ、この点に関しては白人中心主義を容易に脱却できずにいる欧米のフィールドワーカーに対するアジアの学者の優位であるとすら示唆していたのを、日本楽理がいまだに理解していない、ということだと思います。

かつて日本音楽学会では、西欧芸術音楽派と民族音楽派が、例会でも大会でも、何かというと対立して熾烈な闘争を展開していましたが、あれは、学問の方法論の対立というよりも、日本楽理の石頭にフィールドワーカーが愛想を尽かしていたのかもしれない。

そして今では、民族音楽学の後継としてのポピュラー音楽研究が、最初から別の学会を作って日本楽理と無縁に活動を続けているわけですが、そのような事態に至っても、石頭は懲りないみたいなんですよね。

今回、むしろ「石頭」ぶりが硬直して強化されているかのように感じられたのは、発表の本筋とは別のところで、大変残念で、嘆息せざるを得ないことでした。