生存の技術と統治の技術

文系学部談義が相変わらず荒れているようで、この話題が、乱世にしか生きられない戦国武将の残党みたいな人たちのレゾンデートルになりかかっている様子にうんざりするわけだが、とりあえず、LとGの話は、技術といっても生存のための技術と、統治のための技術は違う、というそれ自体としてはまっとうな区別が発端のような気がします。

音楽の周囲に補助学としての楽理科が設置されるのと、音楽という営みを社会や文化のなかにどう位置づけるか、という哲学的・文化論的・社会科学的な議論が発生するのは別のことで、東京芸大楽理と東大美学の処遇を同じ枠組で議論しても、話がこじれるにきまっている。

生存の技術(補助学)と統治の技術(大局的議論)の分離・分業は昔からあることで、音楽(そしておそらくアート全般)は、むしろ、実技を知らない空論(まるで英語を読み書きできない英文学者のような存在)が油断すると過剰に増殖しがちな分野なので、実技を知らない空論家が、あたかもその分野の専門家であるかのように文系学部の将来を憂うのを見ても、こういう輩はいつの時代にもいるんだよね、ということで話は終わる。

多少なりとも新しいといえそうなことがあるとしたら、公教育という制度が浸透した結果、その分野の生存・存立に直接関わりそうにはない議論であっても、その議論が教育制度のなかに場所を得ると、そういう議論を行う当人にとっては、そのような議論(しばしば空論)を展開することが、当人にとっての生存の技術(食い扶持を得る手段)に転嫁してしまう、ということかもしれない。

ひょっとすると、これは公教育の堕落と制度疲労の兆候かもしれないので、技術の伝承をなんでもかんでも「学校」という枠組に押し込んでいると際限がなくなってしまうのではないか、と疑問を呈してよさそうに思う。

というより、文系学部談義というのは、まさしくそういうことじゃないのだろうか。

「学校」が農村のすべてを抱え込む農協みたいになっていることの功罪に、多くの人が既に気付いているんだと思う。でも文系学部談義で騒ぎたい人は、そこから話を逸らす。

(田舎(ほぼ過疎地)から都会(正確にはベッドタウン)に転勤した学校教師の息子である私は、「農協」的公教育と関わり合いになるのは剣呑だと思って育ったのだが、田舎の学校教師の家に育つと、「農協」的存在のアップデートに躊躇してしまうのだろうか。)