オルタナティヴを見届けようとしないポピュラー音楽学者たち

明日の演奏会の予習で、くるりをひたすら聴いている。Apple Music 大活躍、これまでの人生でこんなにたくさんロックを聞き続けるのは始めてである。

ジュビリーはムーンリバーだ、とか、Let it be なカレーの歌とか、そういうのは、聴いたらすぐにわかるように作っているわけだから、「すべての創造はパクリである」というような存在論の転倒を仕掛けるときには、むしろ、こういう音楽は不向きだと思う。オリジナリティをガチガチに標榜している音楽のコアの部分から「パクリ」を抽出しないと、議論がヤラセになる。……というような90年以後のポピュラー音楽論壇へのツッコミは、もうどうでもいいのだが。

しかし、岸田繁がシンフォニーを発表する、という奇怪な行事の当日に立教大学の学会なんぞに行っていられるか、と、京都に駆けつけるのがロック学者の根性というものではないのだろうか。対象をとことん追い詰める気概のない者たちが学者を名乗って肉を食って喜んでいるようでは、人文キラキラ学問が滅びるのはやむを得まい。本番を聴きもしないで、あとで、あーだこーだ言うようなら、奴らはクソであり、軽侮されてしかるべきだと予め言っておく。

この行事がどう成り行くか、という予想をしたいのではない。結果を見届けて直視する精神なしに、学問は成り立つまい、ということである。

(増田聡准教授は「ワルツを踊れ」のどこがどういう風にクレズマーなのかわかっているのだろうか? 大和田や輪島はわかっていそうだが、南田という社会学者はどうなのだろう?)