管弦楽史のなかのマーラー

くるりの岸田の交響曲を聴いた夜に、明日の授業の準備(この調子だとまた徹夜)でアバドのルツェルンでの一連のマーラー(演奏もさることながらYouTubeにあがっている映像の出来映えが素晴らしい)を見る巡り合わせになっております。

「文化史のなかのマーラー」の隆盛を私が意固地に嫌うのは、院生の頃、ドイツ語の勉強を兼ねて原書で読んでいた Dieter de la Motte の Musikalische Analyse (入野義郎の訳が全音から出ている)にマーラーの交響曲第7番のセレナードの精緻な分析があって、マーラーはこういう水準で語らないとダメなんじゃないか、という思いがずっとわだかまっているからだと思う。

今年から受け持っている管弦楽史の授業でマーラーの話をすることになって、管弦楽の歴史におけるバンダと特殊楽器の意味、という切り口を設定すると、ウィーンのユダヤ人をめぐる文化史が、ありふれたものと個性的なものの関係を反転させる異化的作曲技法の分析とつながるかもしれない気がしている。第7交響曲は、ハロウィンの怪物大集合という感じに特殊な楽器を次々投入して、天上界を暗示するバンダとは別の種類の他者・異界を舞台裏ではなく舞台上に出現させる作品ですよね。