ドイツの「民謡」と韻律

昨今の若者の「運動」の盛り上がりを受けて柴田翔が東大の学生運動を書いて芥川賞を受けた小説に言及した文章を見かけるが、柴田本人はその後ドイツ文学者になった。彼が東大教授として編集したドイツ文学史の概説書を読んだら、「近世」の詩としてハンス・ザックスの靴の歌があって、そこからいきなり「啓蒙時代」に飛び、なおかつ啓蒙時代の話なのにクロップシュトックの疾風怒濤の自由律の話になっている。

具体的に調べていないので想像だが、たぶんバロックからロココの宮廷や市民の社交文化がドイツ語の定型詩を大量に生み出しているはずなのに、それを(ドイツ文学としての)「文学的価値なし」とみなしてカットしたから、こういうことになっているのだと思う。そしてこれも想像だが、そうした(ドイツ文学としての)オリジナリティがない一群の詩は、詩形の点でもラテン文学以来の伝統に沿ったもので、つまらないとみなされているのだろう。

ヘルダーの民謡論は、(吉田寛が「音楽の国」論でややこしく解析しているような思想史の問題である以前に)民衆の詩歌がかなり自由であり、およそホメロスのヘクサメーターやホラチウスのオードといったギリシャ・ラテン文芸の基準にはあてはまらず、これを称揚することで、疾風怒濤のさらに先の自由な文芸(言語芸術)を切り開くことができると思えたからインパクトを持ったのではないか? だから、彼が「古代人」を言うときには、フランス古典主義だけでなく、そこに追随するドイツの宮廷文化もまた、仮想敵だったのではないか?

ゲーテのファウストは、第1部の最初のところがイアンブス(弱強 u -)の4韻脚になっている。

Ihr beiden, die ihr mir so oft,
In Not und Trübsal, beigestanden,
Sagt, was ihr wohl in deutschen Landen
Von unsrer Unternehmung hofft?

u - u, - u - u -
u - u, - u - u - u
u, - u - u - u - u
u - u - u - u -

きれいに abba (oft -anden -anden -offt)の包摂韻だ。

ところが、柴田の文学史概説ではヘルダー流の民謡論のインパクトのなかで書かれたバラードだとされる挿入歌「トゥーレの王」はこう始まる。

Es war ein König in Thule,
Gar treu bis an das Grab,
Dem sterbend seine Buhle
Einen goldnen Becher gab.

u - u - u u - u
u - u - u -
u - u - u - u
u u - u - u -

私の読み方が間違っていないとしたら、1行3韻脚で交差韻 abab (-ule -ab -uhle ab)のイアンブス風ではあるけれど、ところどころに弱拍が2つ並んでいたりする。シラーの「人質」(走れメロスの元ネタ)もそうだけれど、ヘルダー流の民謡論のインパクトを受けて、ゲーテやシラーが競ってこういう破調のバラードを試みた時期があるようだ。

「野薔薇」もバラードとされるようで、律儀にトロカイオス(強弱 - u)だけれども4韻脚に3韻脚の行が混じって、しかもこの行がリフレインになり、Röslein の語はリフレイン以外の行でもしつこく連呼される。強拍と弱拍が交互に並んで、言葉のリズムはスムーズだけれど、詩としての脚韻はなんだかわけがわからなくなっている。

Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschön,
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.

- u - u - u -
- u - u - u
- u - u - u -
- u - u - u -
- u - u - u
- u - u - u -
- u - u - u

文学としての民謡の「野蛮な自然」とはこういうことで、ラテン文芸の伝統に対するアンチだった、というだけのことじゃないだろうか。

文芸の「古典」としてのホメロスのヘクサメーターは、ラテン語やゲルマン諸語でやろうとすると長くてとても難しい詩形で、ホメロスは方言を駆使してしのいでいるらしい。そのように難しい詩形に言葉を整えていく営み(=古典主義)と、ゲーテやシラーのようにそれ自体は技芸として難しくない詩形や規範を意図的なのに人工的だと思わせない「自然さ」で崩す営み(=野蛮な自然)は、随分違うことであって、「ヘルダーのほうがフランスの古典主義者よりもいっそう古典的であった」という吉田寛のヘルダー論の決めぜりふは、レトリック以上の何かを言えてはいない気がします。

はじめて学ぶドイツ文学史 (シリーズ・はじめて学ぶ文学史)

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「音楽の国」論は、この種の具体的であるはずの話を全部すっとばすから、詩歌に日常的に取り組んでいる人たちから「かゆいところに手がとどいていない」と文句を言われてしまう。そしてドイツ文学者は、ドイツ・ナショナリズムに都合の悪いところを無断ですっとばすから、巨視的な議論をしたい人たちを欲求不満に陥れる。

シューベルトはこういう破調の面白さをどうにかしようとするところからリートの作曲をスタートしたわけだから、具体的にちゃんと整理しておかないと、文学(言葉)の話が音楽の話とつながらなくなってしまう。

(堀朋平の本は、当然このあたりをわかって書かれているわけだが、なにせ、あの凝縮された文体ではわかりにくい。かみくだいで湯戻ししたドイツ詩歌の入門書が別に欲しい。)

英詩のわかり方

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ノーベル文学賞を喜んでいるんだかいないんだか定かではないボブを上手に解説できる阿部公彦の英詩の本は、少しずつ読んでちゃんと勉強したいものだと思うけれど、ヨーロッパの言葉と音楽の関わり(=「うた」)のことを考えるとしたら、やっぱり近代では仏独の詩について、付曲される手前の「文学」として何がどうなっているのか、ということをちゃんと押さえておきたい。

言語芸術作品 〈新装版〉: 文芸学入門 (叢書・ウニベルシタス)

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訳書のどこにも原書の書誌(Wolfgang Kayser, Das sprachliche Kunstwerk. Eine Einführung in die Literaturwissenschaft, 1948)が出ていない杜撰な作りで、内容としても、韻文と散文(叙述文芸)をいっしょくたに体系化しようとしていたりして、さすがに古いとしか言いようのない本が現役で「ドイツ詩」の棚に並んでいる状態は、やっぱりまずいと思う。ドイツ・リートを本格的に勉強しようとする歌い手さんは、徒弟制度的に心ある独文学者から口伝でで個人指導を受けるしかないのだろうか。それでいいのだろうか?