翻訳者という神官

『英詩のわかり方』で阿部公彦は、日本の外国文学者が詩の翻訳を手がけるのはカトリックの司祭に似ている、と書いている。うまい比喩だと思う。音楽学者がオペラやリートのコンサートで訳詞の字幕を作るのも、祭儀に神官が召喚されるのを思わせる。

翻訳が神職になってしまう文化風土は諸刃の剣だ。

阿部公彦が『英詩のわかり方』で手の内を明かしながらその仕事をかみくだいて説明するのは、一般人にわからない呪文のような外国語(の文芸)を日本語として降霊させる翻訳稼業でお布施の如きお金を稼ぐ「神官」の需要を自覚しつつ、人文学者がその美味しい商売に安住しているだけではダメだと考えているのだろう。たぶん、音楽学者による翻訳・字幕制作についても同じことが言える。しかも言葉に付曲するとなると、「外国語」(という彼岸と思われがちな異界風の遠くの世界の言葉)に、「音楽」というもうひとつの異界の言葉が掛け合わされて、事態はさらに複雑になる。

テクストの取り扱いは、歴史とはまた違う「人文」の簡単には償却できない役割のひとつのはずで、そこのところの説明と実践に齟齬や不具合があって現状がこうなっているのだとしたら、事務方(行政)をdisるだけでは、揉め事は解決するまい。

英詩のわかり方

英詩のわかり方