環境に埋め込まれたヴァーチャル

据え置きのデスクトップ端末を有線無線でつなぐコンピュータネットワークは、インフラ部分が昔からずっとUNIXベースだからファイルやフォルダ(ディレクトリ)といったツリー状のメタファーを介して操作することになっている。

年度末の卒論修論指導で、どのようにファイルをバックアップしてデータ消失を防ぐか、という話が出てくるのは、文系の人間であってもファイルやフォルダのメタファーから逃れられないということだと思う。コンピュータで作成したデータは、紙を机のうえに積み重ねたら探すのは大変でもなくなることはない、というのとは違う姿でアーカイヴされている。

学術振興会や日本音楽学会の融通の効かない書式規定が理不尽なものになるのは、それなりに成熟しているネットワークコンピューティングに背を向けて、デスクトップ端末で完結する一昔前の Windows/MS Office の概念に業務を押し込めようとするからですね。そんな場所に籠城したら破綻するに決まっているのに(既に外堀は埋まっておる(笑))、これほど見事にアホなことをやり続ける先例主義は、逆に感動的かもしれない。大河ドラマを作りましょう。「MS丸」、伝説の策士ビル・ゲイツの2人の息子ワード(=愚直で重装備でオフィシャルにオーソライズされた嫡男)とエクセル(=融通無碍で軽装で計算が得意な次男坊)の兄弟が乱世をいかに生きたか、20世紀から21世紀への世紀転換の物語。

一方で、据え置きではなく、身につけて持ち歩く携帯端末(音声通話はもはや機能のひとつに過ぎないのだから「ケータイ」は携帯電話というより携帯端末の略称と考えた方がいいかもしれない)は、ユーザの操作の点でも、インフラの処理の点でも、どうやらファイル・フォルダのメタファーでは上手くいかないところが出てくるようだ。ゼロ年代には、SNSやオンラインショップが新しい発想のプログラミング言語で実装されていることが話題になった(オブジェクトの並列処理をいちいちコンパイルしないスクリプトで機敏にメンテナンスする方向に物事が動くように見えた)。そしてタッチパネルは、マウスやテンキー、QWERTYキーボードより持ち歩きに適したインターフェースだという了解が得られつつあるように見える。

女子高生のテンキー高速操作が時代の最先端風俗のように言われた時代にタッチパネル式PDAを使い始めた「おじさん」は、15年の歳月(別に九度山に幽閉されていたわけではないが)を経た形勢逆転に溜飲の下がる思いである(笑)。ポケモンGOが中高年にじわじわ浸透して、ゲームが「かわいい」方向へシフトしつつあるのは、ひょっとすると偶然ではないかもしれない。

(「動きすぎないドゥルージアン」が籠城によるジリ貧などまっぴらだと考えたときに新しい出入力インターフェースに着目するのも、おおよそ同じ動きなのだろうと思います。)

スマホのアプリとして配布されたネットワークゲームでどこまで複雑で広がりのあることができるか、というのは、そういう文脈でのチャレンジなのだろうと思う。デスクトップ据え置きのビデオゲームの基準でこれを推し量ろうとすると、コンサートホールやオーディオルームの「客席」から「鑑賞」するタイプの音楽作品の判断基準で、ドラマやイベントのなかに埋め込まれた音・音楽を論評するのに似たミスジャッジが起きそうだ。

(据え置き型のビデオゲームは、十字キーのインターフェースを今後も維持するのでしょうか。それとも別の姿に移行しつつあるのでしょうか?)