manualな音楽:三輪眞弘の声のプラトニズム

三輪眞弘は、生身の人間による「音楽」と身体を通さない亡霊としての「録楽」の区別ということをしきりに言うけれど、彼の作品をまとめて聞くと、彼の言う生身の人間は絶えず手を動かしている。生身の人間とは手を動かす存在であり、自らの手を動かすことのない存在が亡霊と呼ばれるようだ。コンピュータのプログラミングは、カチャカチャとキーボードを手で操作する作業であり、実演でも、オペレータやプレイヤーが所定のキーを操作して音楽がスタートする。アコーディオンの姿をしたフォルマント合成装置も絶えず手を動かして操作される。

モーダルな中世風の聖歌が最先端のコンピュータ演算風に錯綜していくのを聴いていると、西洋流の楽譜を用いた音楽の基礎になっている musica の概念は古代ギリシャ的な自然数(手で指差し数える行為)のうえに築かれていて、コンピュータの演算も 0 と 1 の On/Off の膨大な集積なのだから、彼にとっての「作曲」は、抽象的な観念というより、徹頭徹尾 manual な操作なのだろうと思えてくる。

一方、三輪眞弘には、「声」に手で直接触れてはならない、という掟があるようだ。

「声」は、手で操作することなしに発せられてしまうものであり、手の操作が生み出す「音楽」ではどこまで接近しても到達することができない。そのような「手の不可能性」が次から次へと「作品」として提示されると、彼の説明文が物語る「夢落ち」の架空の教団の話とは別の水準で、声に対するプラトニックな欲望の磁場が発生する。「背徳的」(伊東信宏)な感じがするのは、そのせいじゃないかと私には思われた。

フォルマント兄弟は初音ミクとは別物だ、という主張は、声を録音して、自由自在に声を操作してしまう人たちへの倫理的な憤り、声という自らの神を冒涜されたことへの宗教的な敵意と解釈するとわかりやすい。三輪眞弘の音楽は、どこかしらオタク的に見えるけれど、彼は彼のアイドルであるところの「声」に遠くから決して届くことのないエールを送りつづけるファンなのであって、イベント会場に日参してアイドルと直接握手したりする近頃のオタクが許せないんだと思う。

欲望と信念のベクトル、という点では限りなくオタクに寄り添いながら、最後の一線を越えないように自らを戒律で縛る、というのが、オウム真理教と少年Aの90年代に対する三輪眞弘の回答なのだと思います。

私は声のプラトニズムに同意できないし、musica を手の作業として精錬していく姿勢は、西洋の真髄を突いたというより、今となっては、往年(ほぼ1970年代)の東京芸大作曲科の音楽観に囚われ過ぎている印象を受けるのですが。