ロマン派音楽における替え管とヴァルヴの中間段階

トランペットは長管の高次倍音を駆使することでバロック期に黄金時代を築いたが、ホルンは一時代遅れて、リッピング、ハンドストップ、替え管を駆使して18世紀の後半から19世紀が自然倍音ベースの「ナチュラル」な楽器の全盛期になる。バロックのオーケストラで天上から降り注ぐような輝かしいトランペットが活躍する一方、古典派やロマン派のオーケストラで2本もしくは4本のホルンが管楽器の要になるのは、こうした楽器と奏法の事情があるようだ。

(前にも書いたけれど、オーケストラを大きく発展させたモーツァルトやベートーヴェンの周りには優れたホルン奏者がいて、彼らは、そうしたホルンの最新事情を踏まえて作曲していたようですね。)

「ナチュラル」な金管楽器は音楽を「移動ド」で捉えているように思う。ド ミ ソ ド レ ミ ソ は「ナチュラル」に出せるけれど、その間の音はリッピングもしくはハンドストップで調整しなければならず、音階とは階名ごとに奏法と対応した「個性」がある音の集合だったんだと思う。

転調によって音度の意味と機能が変化することも、「替え管」という演奏上の特別な行為と対応して身体的に把握される。

(リヒャルト・シュトラウスの父フランツがモーツァルトを理想と考えていたのは、たぶん、こういう「ナチュラル」な音楽把握の上に築かれた音楽だからでしょう。大栗裕もホルン出身でモーツァルトを最も尊敬する作曲家だと言っているし、彼が愛用したトンボのシングルハーモニカも、吹く音と吸う音の独自の配置で階名の「個性」を絶えず意識させる楽器ですね。)

ところがベートーヴェンとロマン派のあたりで、「替え管」の別の用法が出てくる。1、2番と3、4番が別の調の楽器を使うことで、彼らは同時に使える音を増やそうとする。人海戦術で替え管の時間を短縮しようとしているわけで、発想としては、織田信長が長篠合戦で火縄銃を複数のグループに分けて、球込めによる空白をなくそうとしたのに似ているかもしれません。

そしてどうやら初期のヴァルヴも、ワンタッチの替え管、として使用された形跡があるらしい。Es管を普通の箇所では「ナチュラル」に吹いて、ある特定の箇所だけヴァルヴを押して半音下げたD管相当の管長にして、in Dでナチュラルに吹く、というような楽器の使い方をしたと思われるホルン・パートが19世紀前半には書かれているのだとか。

(そういえばトンボのシングルハーモニカは、半音階を出すためには、まるでホルンの「替え管」みたいに、別の調の楽器と2つ重ねて吹く「わざ」が開発された。そういうところも「ホルン的」かもしれません。)

ワーグナーはそういう「ナチュラル」から「ヴァルヴ」への過渡期を生きた作曲家であるらしく、おそらくこれは、ワーグナーの歌唱パートが、複雑に転調を繰り返すけれども「移動ド」で音を綱渡りできるように記譜されているのに対応すると思う。ワーグナーは、「移動ド」のtonalな音楽と、来たるべきクロマチックなサウンドのヴィジョンの両方を知っている。

フランツ・シュトラウスが、ワーグナーを「嫌い」だったけれども誰よりも巧みに演奏できたのは、tonalな音楽の達人だったからであり、ワーグナーの音楽は、聴衆に未來を幻視させるけれども、オーケストラ・ピットに伝統を極めた音楽家を必要としていたのだろうと思います。

(これは、ロッシーニ伝来のベル・カント歌手を想定して作曲したヴェルディの作品が、その力強い効果によってヴェリズモ歌手のレパートリーに変わっていったのを連想させる。ポストモダンな人たちが19世紀(場合によっては18世紀や17世紀までも)をひとまとめにそのレッテルとともに超克したいと目論んでいる「近代」は、個別に調べていくと、19世紀の最後か20世紀のはじめにならないと到来しないんですよね。)