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編著という背徳

ここ数日で、自分の書いた文章を少しと他人の書いた文章をたくさん読んで添削した。(全国的に大学というところは今そういう季節であるようだ。)

添削には、ツボを押す整体・マッサージに似た勘所があるようですね。あるポイントをしかるべきやり方で突くと、あとは自力で動いてくれるものみたい。

ゼロから自分で調べて書いて仕上げる、というのとは違う面白さがあるけれど、添削のツボを突くのに興じて、自分で調べて書くのを怠ると、あっという間に堕落しそうではある。大物研究者が配下の者に書かせる「編著」はこういう快感の先にあるのかなあ、と思ったりもする。闇の入り口をのぞき込んでしまったかのようで、恐ろしいことである。

(原案だけを示してゴーストライターが執筆する/楽譜を書く、というのも、ひょっとするとこれに似ているのだろうか。

ちなみに、東条は岸田繁の交響曲について、ほぼ「門前払い」と言えそうな文章を公表しているが、岸田が書きたいと言ったのではなく、京響が書いて欲しいとリクエストしたのだから、東条が事態を気に入らないのであれば、文句を言う相手は岸田ではなく京響だろう、というのがひとつ。そしてもうひとつ、今回のプロジェクトでは、書いた当人も彼のファンも、別に嬉しそうにうかれてはいない、というところを東条はわかっていない。むしろ、誰もがどうなることかとハラハラしながら事態を見守り、どうにかイベントが成立してほっとした、というところだろう。降って湧いた難題(京響からの依頼)にどう応じるか、岸田は火中の栗を拾った感がある。そして、誰も望んでいないのに渦中に飛び込むところが岸田のロック魂なのであろうと推察される。岸田の心得違いを諫めるかのごとき東条の説教口調は、そのあたりをまるでわかっていない点が、どうしようもない誤爆というべきだろう。

岸田繁はオーケストレーターに頼る「堕落への道」の危険を(佐村河内騒動の直後ということもあり)十分にわかったうえで、そのリスクを負うくらいなら、へたくそであっても全パートのデータをMIDIで自力で作る道を選んだわけで、岸田には、東条ごときに説教されねばならぬ後ろ暗いところなど、ありはしない。問題はそこではないのだ。)