劇場指揮者は声に手で触れる - プラトニズムとエロティシズムの差異

どのヴァージョンからなのかわからないが、iPhone の画面読み上げ機能が強化されていることを知る。画面上の文字を読み上げる手順が今はずいぶん簡単になっている。画面をタッチして次々読み上げているうちに、三輪眞弘の声のプラトニズムの件と、タッチパネルがすべてを単純操作に還元する件を組み合わせて考えることができそうだと思いついた。

画面の音声読み上げは、タッチパネルに触るとガジェットが音(声)を出力するが、たぶんこれは、三輪眞弘が追い求めているような「自らの手を動かして音をだす」ではない。指先は画面の「文字」(視覚記号)に触覚的にアプローチしているのであって、音声は、視覚記号への触覚的アプローチの補助に留まる。三輪眞弘が「音に触れたい」と願望するのに対して、タッチパネルの読み上げは「文字に触れる」ことを目指している。指先でものに触れる、という行為が何を目指しているのか、音声を指向するのか、文字・視覚記号を指向するのか、三輪眞弘とタッチパネルはベクトルの向きが違っている。

(補助・ガイド・ナビゲーションがスムーズであるか否かを重視する態度は、ゲーミフィケーションとも絡んで最近の流行なのかもしれず、「何を目指すか」行き先を宙づりにしてナビの優劣を語ること、「目的よりも過程が大事」と言い募ることの是非は、それはそれで気になりますが、今は詮索しない。「位置ゲー」と呼ばれるポケモンGOも、次はこっちに行けあっちに行けという画面上のガイド・ナビゲーションを面白く演出してユーザを遊ばせているのだから、「ナビゲーション・ゲーム」であり、そこが当世風なのかもしれませんが。)

「音に触れる」と「文字に触れる」の差異、というアイデアを敷衍すると、三輪眞弘の「録楽」への違和感、ヴォーカロイドとフォルマントの違いへのこだわりに、もうひとつの解釈が可能かもしれない。既に記号化・データベース化され尽くしている音声データを操作するヴォーカロイドの「声」は、タッチパネルの読み上げに似ている。あのシステムは、声(の断片の集積)を「文字」に似た記号として操作する。三輪眞弘は、そういうことがやりたいわけではないのだと思う。

ただし、前に書いたことの繰り返しになるが、三輪眞弘には「音」と「声」を峻別して、彼の「手/指先」は、「音」に触ることはできても、「声」に触ることはできないと観念されている。そこに「声のプラトニズム」が発生する。

しかし、「声」に触ることは不可能なのだろうか?

たとえば、指揮者の手は、カルロス・クライバーの流麗な身のこなしがそうであるように、「文字」(視覚記号)に似た分節とは別のやり方で音に触れている、と感じさせることがある。一般に、器楽合奏の指揮者は(吹奏楽の起源であるところの軍楽隊長が典型だが)オイッチニと手旗信号風に手振りを「記号化」する傾向があり、歌のリーダーは流れるように手を動かす(合唱指揮者は通常、尖った指揮棒をもたない)。クライバーのようなオペラの指揮者は、その両方を見据えて、器楽と声楽の両方を束ねる必要から、あの自在な身のこなしを編み出すのかもしれない。(ウェーバーもワーグナーもマーラーも、身のこなしが巧みであったと語り伝えられる指揮者はいずれも歌劇場で活躍している。)

劇場には、声に手で触るエロティシズムが伝承されている、と考えることはできまいか。

(こういうアイデアは、英国経験主義がプラトンの「洞窟のイドラ」と並べて批判した「劇場のイドラ」なのでしょうか? 別に、ワーグナーやクライバーをノスタルジックに顕彰しようということではなく、合唱に軸足を置く山田和樹の優位に理屈をつけたいだけなんですけどね。)