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東大美学の科学哲学的な位置づけ

科学の文パラダイムから意味論的なモデル構築への移行、という話はとても示唆的だと思う。

科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

たとえば、知の伝授(教育)が命題の束を伝えることであるならば、講演 Vorlesung (文の束を講師が読み上げて学生がこれを書き取る)という形式が有効だろうが、意味論的なモデルを伝えようとするときには、別の方法が模索されることになるだろう(ファカルティ・デヴェロップメントだ)。そして、パワーポイントで文の束(箇条書き)を映し出すだけ、というのは、たとえ、どのように見栄えやエフェクトを工夫しても、文パラダイムに固執するダメなFDということになりそうだ。

美学がバウムガルテンを開祖とする哲学の一部門であるとすると、哲学は「文・命題の束」である状態を脱することができるのか、脱してなお、それは哲学(論理=ロゴス)なのか、という異論が出るかもしれない。哲学は、ひょっとすると、ロゴス(文・論)という言語の特殊な運用スキルを伝承する知、という形で存続するかもしれない。

しかし一方に、美学を感性学と芸術学の二本立てにすっきり改組しようという動きがある。センスの科学とアートの科学である。言語運用の分析(分析哲学)は、センスやアートを記述する「文・命題の束」を意味論モデル構築のための材料に変換するプロジェクトと位置づけることができるかもしれない。

事実既に、東大から出てくる最近の人たちをみていると、既にそういうプロジェクトがはじまっている、と見た方がよさそうな気がする。「文パラダイムから意味論的モデル構築へ」という標語は、未來を指し示すというよりも、今実際に学問の現場で起きていることを説明しているのだと思う。

しかしおそらく、ここで「歴史」が問題になる。

渡辺裕とその弟子たちが90年代からお手軽に冗舌な論を立てることができたのは、蓄積された「文の束」の歴史的文脈を無視して、もしくは、過小に見積もって、現在の私たちが面白いと思える意味論モデルを取り出せばそれでよし、とする傾向があった。18世紀や19世紀の文献を「進歩史観」なる戦後日本の経済学に由来する意味論モデルの構築・強化に利用する、というのがその典型だ。

ほぼ同じ世代の津上先生はギリシャからルネサンスの古典文献、小田部先生はドイツ観念論に踏みとどまって、地味に見えたけれど、それは、「歴史」の文脈を読み込んだ意味論モデルの構築には時間がかかる、ということだろう。

前者より後者のほうが手順は面倒でも長続きする有望な道であろうと、普通は思うよな。