法とルール

これは批判ではなく概念の整理だが、ゲームがルールなしには成り立たないことがゲームの倫理的な要点であるとして、ルールと法(jus と rex)の関係はどういうことになるのだろう。

ビデオゲームを例に取れば、コンピュータのアプリケーションとして動くゲームソフトという上位層ではルールまでしか問うことができず、法との接点はその下位層のインフラ(オペレーティングシステムとハードウェア)で実装される、という整理になるのだろうか。

10年前に「インターネットの倫理と設計」ということが言われたころには、そのあたりに議論が着地していた気がするのだが。

そしてこの整理が今も妥当だとしたら、文明社会に生きる人間が慣習的なルールだけでやりくりする(=ユーザ・コンシューマの位置に留め置かれて白痴化する)わけにはいかないので、ゲームで学び得るルールの基礎になる「法」(とりわけ正義 jus の問題)にデジタルワールドで触れるためには、そもそも情報処理とはどういうことか、という下位層が知と教養に組み込まれる必要があるのではなかろうか。

ビデオゲームに表示される記号・表象の水準で運用される「ルール」の外部に、そのような表示面を持つ「板」をどのように運用するかという「法」がある、という風に整理できるとしたら、タッチパネルの「面」への没入と「板」としての把握の間に、舞台上のドラマへの没入と劇場という装置の運用に似たモードの違いを想定したい私にとっては、まことに好都合なのですが。