前衛音楽史を大衆音楽史で包囲する

シュトックハウゼン「グルッペン」の批評(日経大阪版夕刊)では、放送や映画のステレオシステムが始まりつつあった時期にこの曲が作られたことを軽く指摘した。エリートによる実験が大衆文化をリードしたわけではなく、むしろ、大衆文化におけるイノヴェーションからエリートが着想を得た例ではないかと思うのです。

今年の授業では十分に煮詰めることができなかったけれど、20世紀の音楽史はそういう現象に焦点を当てて講述したほうがまとまりやすいのではないか?

第一次大戦直前のパリの音楽における印象派は、ガムランとかスペイン趣味とか、異文化の音楽・諸民族の音楽に中世趣味(モードによる作曲)を接続することで近代の調性の外に出た。

一方、ウィーンを中心とする中央ヨーロッパのモダニストは、ロマやクレズマーや農民の音楽、フォークロアをあたかも都市音楽の下意識であるかのように解析・摂取する回路を構築して、調性音楽の土台を掘り崩した。

そして1920年代の軽量軽快な新即物主義や新古典主義は、たぶんラジオやレコードから聞こえて来るジャズとシンクロしている。

このあたりまでは、比較的具体的に言えると思うし、その先もなんとかなるのではないか。

たとえば1950年代の密室で秘かな実験を執り行うような作品群は、セッションの記録として「作品」が生成されるビバップに似ているかもしれないし、1960年代の前衛のフェス化・公共事業としての展開は、スタジオでの録音編集による電子音楽と相まって、ロックがライヴツアーとアルバム制作の二本立てなのと似ているかもしれない。

今の学生さんたちは「短い20世紀」を知らないのだから、特定の党派へのオルグとして20世紀を語る意義は失われつつある気がする。そしてそうなると、「結局色々頑張ったけど、前衛・実験の人たちは最後まで少数派だったよね」という勢力分布それ自体を歴史的事実として解釈・解説することになる。エリート/前衛が、どのように大衆/ポップスに包囲されるに至ったか、その概略を語ることができたら、基礎教養としてはそれで十分かもしれない。