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バッハの混合趣味の下部構造

音楽大学の管楽器や打楽器の院生が学位を取ろうとすると、たいてい実演と論文の両方を求められて、管楽器や弦楽器について論を立てることになるのだけれど、テーマ選びにみんな苦労するようだ。

楽器への知的アプローチというと全体を整然と分類する楽器学があるけれど、これは、それぞれの奏者が伝承する知識とどうつながっているのかわかりにくい。神話的であったり文化史的であったりするエッセイ、「角笛」をめぐるあれこれを面白く綴る、とか、そういうのもあるけれど、これは、音楽研究というより、音楽(楽器)の表象とたわむれる文学と言うべきだろう。

「音楽論におけるドイツの表象」の歴史を綴った日本語の本が出て、そこに記された「混合趣味」という言葉に、日本の読者が「後進国コンプレックス」で共振する、というのも、音楽の話というより、音楽の表象の話だと思う。

一方、色々な楽器のことを見ていくと、バロック・フルートではフリードリヒ大王に仕えたクヴァンツより先にオトテールの貢献が重要であるらしい、とか、オーボエをオーケストラにフィーチャーする上ではリュリが重要であったらしい、とか、金属製の角笛(ナチュラル・ホルン)をオーケストラに導入したのはルイ14世の宮廷であったらしい(だから「フレンチ・ホルン」なのでしょう、ヴァルトホルンと言ってもドイツやボヘミアが発祥ではないのです)とか、近代オーケストラの管楽器の基本は、どうやらフランスで準備された形跡がある。そういえば、イタリアン・バロックはコレッリ、トレッリ、ヴィヴァルディとか、ヴァイオリン中心、弦楽合奏主体の印象がありますね。

ということは、バッハがケーテンの宮廷やライプチヒのコレギウム・ムジクムで管楽器を多用して、オーバーチュア(組曲)だけでなく様々な編成のコンチェルト(その集大成がブランデンブルクの6曲)を書いたのは、すでにそのアイデア自体が、イタリア様式の楽曲をフランス風オーケストラで上演する混合趣味だったんだと思う。

「民謡の発見」がドイツ語の詩をどういう韻律で書くか、ということであったように、「混合趣味」は、どういう楽器でどういう曲を書くか、という現場での日々の選択だったのではないか。

(ちなみに、自然倍音を出す金属製のホルンを「ナチュラル・ホルン」と呼ぶのは、19世紀にヴァルヴ・ホルンが登場したことによる「レトロニム」ですね。閑話休題。)

美学者はそういうベクトルではものを考えないことになっているのかもしれないが、音楽家の経験とのつながり、文化のマスタープラン、グランドデザインだけではない実装の概略を示唆しておくと、美学者の論考であっても、音楽学会の「地を這う人々」から、「こんなのは音楽の話じゃない」と不毛な罵声を浴びないで済んだかもしれませんね。

民主主義国家における「象徴」は、国民から愛されて君臨するのでなく、国民を愛し、国民と共にある。