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ブルックナーの和声進行

オーストリアの教会オルガン奏者の伝統のなかで育ったブルックナーは誰もが認めた即興演奏を可能にする自らの和声法に絶大な自信を持っていた形跡がある。(その絶大な自信でブルックナーは帝都を「全力で押しとおり」、ウィーン大学講師の職を得た。)そしてブルックナーのハーモニーがバッハやワーグナーを思わせると同時にときおりシューベルト風(もしくはドヴォルザーク風)に動くのは、ブルックナーとシューベルトの共通分母になるような教会のオルガンの伝統がハプスブルク領内に伝承されていたのではないかという気がしてならない。

ブルックナーの演奏は、パワフルなサウンドが鳴り響き、各パートが無傷だったとしても、和声進行や声部進行が混濁したら台無しなんじゃないか。そういうのは、三和音が濁った状態でコスプレ風にロココのふりをするモーツァルトと同じくらいキッチュなマガイモノなんじゃないだろうか。

(例えば管楽器のB-durの和音の上声にd音が響いて、次の小節で弦楽合奏がd-mollの和音を鳴り響かせるときに、ヴァイオリンがG線の太い主旋律でこのd音を引き継ぐ、というようなときに、サウンド(音色)の切り替えだけを意識して、d音が持続していることを意識しないで音のピッチやタッチの連続性が途切れてしまうと、どんなに根性や気合いを入れても、音楽が切れて台無しなのではないか。

日本のオーケストラが、性能は良くても音楽がダメだ、と判定されがちなのは、このあたりに具体的・技術的な原因がありそうな気がする。サウンド重視で音程・リズムといった西欧流のソルフェージュがおろそかになる傾向は、メンバーが代替わりして、近年むしろ助長されている気がするのです。)

ブルックナーは「田舎者」だったかもしれないが、彼の音楽の「田舎者」ぶりは、ブラスバンド風にサウンドのパワーで押しとおるところではなく、ペダンティックに和声と対位法の力を信じたところにあるんじゃないか。地方の由緒ある神社の世襲の宮司が、やたらと神道祭祀に詳しいようなもので……。

ドミナントのあとにゲネラルパウゼがあって、それを受けるコーダが主調のトニカではじまる場面で、ゲネラルパウゼが「完全な停止・沈黙」になってしまうのは、ブルックナーが属した文化的伝統とは無縁な東洋人の無知蒙昧だと思う。

(ちなみに、オペラなどでの用例をみるかぎりでは、19世紀に仏教の受容で知識人に知られるようになった「東洋的な虚無」は、沈黙=休符ではなく、音程が不定なドラの低く複雑なノイズで表象されていたようだ。深淵・ブラックホールは、西欧音楽において「無音」ではない。そして西洋音楽における無音・沈黙は、「無意味」ではなく、音楽的にはっきりした「意味」と「機能」がある。)