デューク・エリントンとストラヴィンスキー

ジャズバンドで最初にスターになったのはルイ・アームストロングのトランペット。このあと1920年代にデューク・エリントンやカウント・ベーシーなどピアニストがリーダーになるバンドが大都会に進出して、1930年代スウィングの時代に、サックスの甘いサウンドが受ける。そして40年代のビバップは、余分なものを取り去って、トランペットとピアノとサックスをウッドベースがサポートするミニマムな編成になる。

ジャズバンドには、おおよそこういう「楽器法」の変遷があるんだ、と菊地成孔が解説していたけれど、だとすると、ガーシュウィンがピアノとジャズバンドのコンチェルトを書いたり、ラヴェルがジャズバンド風に管打楽器をにぎやかに鳴らして、ピアノがブルースを弾くコンチェルトを書いたのは、エリントンやベーシーが「ジャズ」を代表していた時代ならではの副産物ということになるんじゃないか。

ダリウス・ミヨーがハーレムでエリントンの演奏を夢中で聴いていた、という話があったかと思うが、既にペトルーシュカで「オケなかピアノ」を試していたストラヴィンスキーが、管楽器のシンフォニーズを応用して管楽器とピアノのコンチェルトを書いたのは、世間のこういう動向を横目で見ながら、美味しいところを盗んだのかもしれない。

1920年代に「ピアノの打楽器的用法」とともにピアノ協奏曲が再生するのは、結構具体的にジャズの影響なんじゃないか。

ピアノ協奏曲の誕生 19世紀ヴィルトゥオーソ音楽史

ピアノ協奏曲の誕生 19世紀ヴィルトゥオーソ音楽史

北米に移住してVIPになったストラヴィンスキーは、ベニー・グッドマンとはコラボできたけれど黒人とはたぶん一緒に仕事をしていない。そのあたりが時代の限界、白系ロシア人ストラヴィンスキーの限界で、白人と黒人のコラボレーションは、ガーシュウィンの黒人オペラからバースタインへ、というロシア系ユダヤ人コミュニティのその後の活躍を待たねばならない。(黒人音楽に「世界の創造」を幻視したダリウス・ミヨーもユダヤ人だ。)