聴覚文化の疲弊と視覚文化の未成熟

20世紀は「言語論的転回」を達成した記号の時代であった、という言い方があるけれど、その実体は、文字によるコミュニケーションがコモディティ化して、もはや文化・文明における特権的な位置を占めるものではなくなった、ということに過ぎないかもしれない。

「言語論的展開」を果たしたと称する論客は「音声中心主義」を批判するのが習い性だったわけだが、メディア論や各種社会科学の成果をながめると、むしろ20世紀は「声の世紀」だったのではないか、と思えてくる。「声の優位」は、音声中心主義への批判で言われるような過去に根ざす伝統の復活、近代人としての我々が克服すべき忌まわしき古代の残滓というより、声を無線で地上に散布する20世紀の新体制の現在だったのではないか。ユダヤ教・キリスト教が声の宗教だったことと、20世紀が「声のブロードキャスト」の時代だったことは、偶然の類似、他人のそら似に過ぎず、そのような偶然にすがって、現にそこにある「声の優位」を古くさいものであるかのように言い募ったのは、現実を否認して、声の優位に抗い、文字を信じようとする心的作用に過ぎないのではないか。

他方で、20世紀は視覚イメージが氾濫する「ヴィジュアルの時代」だったとさかんに言われてきた。たしかに、グーテンベルクの聖書印刷の時代から考えれば、活字を組むのではないオフセットからデジタル編集へと印刷技術が変遷して、出版物における文字と図像の関係は前の世紀と比べれば、はるかに自由になった。

でも、それは出版業界内部の事情、「紙の上の革命」に過ぎず、いわば「紙上の空論」だったのではないか。

現実の生活空間をみわたすと、むしろ20世紀は、印刷物(紙)におけるだけでなく、映画のスクリーンやテレビ・コンピュータの画面など、視覚イメージを徹底的に二次元平面に押し込めており、そのような視覚イメージの二次元化を「進歩」であると人々に信じ込ませる時代だった気がする。20世紀は視覚文化の活動領域を徹底的に限定しており、視覚文化にとっては人類史上空前に窮屈な時代だったのではないだろうか。

吉田寛先生は『表象』という雑誌で、視覚文化論の活況に対して、聴覚文化論があまりにも手薄である、と嘆いたわけだが、21世紀の入り口に立って私が思うのは、「声の世紀」がそろそろ制度疲労で先細るんじゃないかということ、そして、視覚文化は、二次元平面の外に解放される道を見いだすことができれば、ようやくこれから本当の成熟に向かうんじゃないかということだ。マンガやアニメやビデオゲームの人類史的な可能性を構想するとしたら、むしろ、そういう構図を思い描いたほうがいいんじゃないだろうか。