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比喩が成り立たない世界に背を向ける者

岡田暁生のメロドラマ論は、メロドラマ様式のオペラのヒロインたちの生き様を「まるで宗教的カリスマ(巫女)のようだ」、「まるで芸能界のようだ」と言うが、大栗裕の仏教洋楽のことを調べて、来年はミュージカルの歴史を授業で担当する立場になると、この「まるで……のようだ」話法が気になる。この話法が成り立つのは、オペラが宗教音楽「ではない」からであり、オペラ歌手は芸能人「ではない」からだ。そして岡田暁生自身も純愛の人であり、当人はメロドラマ的ではない。自分はメロドラマの当事者ではないことを自明の前提にした対象化であり、宗教や芸能界に巻き込まれているわけでもないがゆえのお気楽話法、宗教や芸能界がイメージ通りに存立していることを前提してそこに寄りかかる「踏み台」話法だが、宗教や芸能界(ショービズ)を正面に見据えて対象化すると、もう、この話法は使えない。

メロドラマ・オペラのヒロインたち

メロドラマ・オペラのヒロインたち

吉田寛先生がドゥルーズを援用して「似ていないがゆえにシミュラークルの抗いが可能になる」と主張するのは、この種の「踏み台」話法をミメーシス全般に拡張して全肯定してしまおうとする目論見に見える。都会の知識人・高等遊民は、どこかに存立しているかもしれないけれども内在的に直観できない「リアル」と格闘するのを諦めてシミュラークルを生きればいい。それこそが抗いであり、「リアリズム2.0」だということになると、やっぱりマズいのではなかろうか。

ユリイカ 2017年2月号 特集=ソーシャルゲームの現在 ―『Pokémon GO』のその先―

ユリイカ 2017年2月号 特集=ソーシャルゲームの現在 ―『Pokémon GO』のその先―

(それにしても、「インターフェースは雑なんですけどね」とか「見た目はいつ時代のゲームかと思いますけどね」と前置きしないとポケモンGOについて語ることができない自意識って何なんですかね。ビデオゲームは、20世紀のサブカル・エリートのアジールなのか? まあ、大学(斜陽化が著しい)で「研究」される対象になっちゃいましたからね。)