大阪の「外陸」部

地形を語るときに山側を「内陸部」と言うけれど、70年代以後の宅地開発は、海に面した都市を「外」へ開く意識があったんじゃないだろうか。下関から大陸につながっていた瀬戸内海の交易ルートのドンつまりの大阪の場合、とりわけ、その感じが強いように思う。

大植英次が大阪フィルを大川河口部に近い福島や中之島から大阪城に連れ出したり、鴫野生まれの西村朗が城の北東の民間ホール(大坂冬の陣の京橋の戦いがあったあたり)で新しい団体を旗揚げした関西のクラシック音楽のゼロ年代は、今から振り返れば、大阪を東の「外陸」に開こうとしていたのかもしれない。

大阪フィルの大阪城進出は橋本維新に阻まれ、くだんの民間ホールは、一皮めくれば東国のマネジメントから公演を買っている。大阪の外陸への東進は頓挫して、都構想騒ぎを経た2010年代後半の大阪は、結局、瀬戸内海のどん詰まりなんですかね。開港当時はだだっぴろく閑散としていた関西空港が息を吹き返したのも、大陸からの観光客のおかげだし。