三角形は固いのか? ステレオフォンと3Dモデリングのアポリア

淀川河川敷を iPhone のパノラマで撮るのがあまりにも面白かったので、少し考えてみた。

大栗裕が遺したオープリンルテープのモノラル録音を整理したり、BT無線イヤフォン(片耳)を便利に使っているうちに、「ステレオシステム」は聴覚体験として自然というより人工的な one of them なのではないか、という気がしつつある。

モノラル録音に「左右」はないが、「奥行き」はしっかり聞こえる。モノラル録音はフラットではない。聴覚的「立体」(耳が捉えるような)と、「左」と「右」の偏差から位置を割り出す三角測量風の「定位」は、おそらく同じ概念ではない。

ここで三角測量の語を使ったが、日本語の「ステレオ」のもとになっている stereophonic はギリシャ語の stereo と phone を組み合わせた造語らしい。そして stereo は「固い/立体」を意味するそうだが、「立体の固さ stereo」が2つのマイク/スピーカーを設置することで実現できる、というのは三角形の幾何学ですね。

でも、聴覚的な「奥行き」は2つの耳の三角測量だけで把握されるのではない可能性がある。

20世紀の録音再生技術史は、「立体」が三角測量に尽きるものではないとしたら何なのか、聴覚に範囲を絞って探究した歴史だったのかもしれない。

一方、視覚のほうは、光学レンズが捉えた像の特性を探究することに熱心で、三角測量風に複数のレンズの偏差を利用する試みは散発的だ。いわば、片目でいけるところまで突き進んだのが視覚の20世紀で、動画のための3Dモデリングには画角など単眼レンズで培われてきた概念が必要になるようだ。

3Dにデザインされていないビデオゲームのディスプレイを「古い」と感じる技術者がいるとしたら、その人は単眼光学レンズ越しの視覚像に囚われた自らの感性の古さを疑ったほうがいいかもしれない。おそらく3Dモデリングの過剰でけばけばしい感じは、マイクによる集音とスピーカーによる出力に囚われた音響マニアの煩わしさに似ている。

聴覚は、20世紀に、3D的な方向であれ、ステレオ・三角測量的な方向であれ、知覚の科学に軸足を置く音響の取り扱いの機微、その可能性と限界を既にひととおり一巡してしまったように思う。いまだに3Dや複眼立体視を言っている視覚文化が未熟に思える、というのは、そういうことだ。

(先日、十数年ぶりにメガネを新調した。思えば、大学院に進学した頃からコンタクトレンズを使うようになったので、その後に批評や大学で仕事でお知り合いになった人たちは、メガネをかけている私を知らない。生まれてから25年間、ちょうどシューベルト(メガネの作曲家ですね)のピアノ音楽に取り組んでいた頃までメガネのお世話になって、その後、ウェーバーだ大栗裕だ劇場だ、と言いだした頃から25年間コンタクトレンズを常用している(大栗裕も黒縁メガネの人ですが)。この先、平均寿命を考えればさらに25年はどうにか生きながらえるでしょうから、デジタル情報技術だAIだと言うのであれば、マニアックではないアプローチで、視覚について、使える知性が発展してほしいものです。目が悪い者にとっては死活問題ですよ(笑)。)