日本人研究者の英語力を測る起点はどこなのか?

日本人研究者にとって英語力は必須だ、とか、研究者の英語力は確実に向上している、とか、実に不思議な議論があるようなのだが、「向上」の起点はどこなのだろう? 日本の近代の学問は、英語もしくは欧米語の読み書きができなければたちゆかないと観念して洋学導入に舵を切り、明治の高等教育は欧米人教師が欧米語でやっていたのだから、その外国語の要求水準が無限大であったと考えるしかない。その時代から考えれば、現状で「向上」とか何とか言うのは、ほとんど誤差の範囲なのではないか。

たぶん、「向上」とかなんとか言う人は、無意識暗黙に、新制大学、あるいは自分が直接知っている全共闘世代からあとのことだけを考えて、戦前は「有史以前」くらいに思っているのだろう。底の浅い話である。

それとは別に、特に人文科学では、「向上」云々を言うときの参照元と思われる欧米語の論文の語彙や文体がここ数十年で大きく変化しているように思う。そして語彙・文体の変化は、おそらく、理系の論文同様に、その言語を母語としない者への参入障壁を低くするフラットな英語に向かっているように思う。

日本人研究者の英語力が若い世代ほど「向上」しているかのように見えるとしたら、それは、そのような現在進行形の変化への適応力が若い人ほど高い(古い人はそういう新しい英語を知らない)、というだけのことなのではないだろうか。

(しかし、最新の動向への適応力を能力の「向上」などと言ってしまったら、英語だけでなく日本語(学問の)だって変化しているのだから、若い世代ほど日本語の運用能力が高くなってきて頼もしい、というトンデモな主張を展開することができてしまう。詭弁である。SNSは、こういう詭弁が横行するから、たまに見ると脱力する。)