びわ湖リングがはじまった

新国立劇場の2001〜2004年のニーベルンクの指輪は、「読み替え」の潮流がゼロ年代のクール・ジャパンと合流するキッチュな舞台で、「トウキョウ・リング」と呼ばれたりしていたが、びわ湖ホールが今年から4年がかりで取り組むことになっている指輪プロジェクトは、その次の段階のフラッグシップになり得るのではなかろうか。

「トウキョウ・リング」でわあわあ賛否両論騒いでいた当時はおじさん、おばさんで今や老人になりつつある人たち(東条とか?)のコメントや、この一年で顕著に知力が衰退・凋落したと言うしかないSNSの「感想」では、今度のラインの黄金が「余計なことをしない台本に忠実な舞台」とか「まるでメトのようにわかりやすい初心者向け」などと片付けられているようだが、大阪難波のコスミックラボのプロジェクション・マッピングを昨年のオランダ人以上に盛大に使った視覚効果が、あたかも「何もしていない」かのように劇場にフィットしているのは、技術者・裏方はもちろん、歌手も指揮者もオーケストラも、今までやったことのないことをものすごくたくさんやっているからこそではないかと思う。

たとえば、冒頭のラインの乙女のシーンで、スクリーンに投影された魚の映像と、舞台上で動く人間(歌手)がどのタイミングでどうやって入れ替わるか、ということひとつとっても、どれだけ色々なことを考えねばならないか、多少なりとも活動領域が残っている生きた脳味噌と、それを働かせる想像力があれば、わかりそうなものであろう。

そもそも、指輪四部作の開幕を飾るラインの黄金の冒頭で、音楽の前に幕が上がって映像だけを見せられて、指揮者が拍手を受けることなく板付きで音楽をはじめる、というのは、どれくらい前例のあることなのでしょうか?(ヨーロッパあたりでは誰かが既にやっているかもしれないが、だとしたら、どの劇場で誰が最初に指輪を板付きではじめたのか、正確な情報が知りたいところだ。少なくとも、国内で指輪を板付きではじめたのは今回が最初だろうし、そのことは、ちゃんと驚かれてしかるべきではなかろうか? 「情報」として次から次へと公演を飛び回っているすれっからしは、驚くべき場面で驚く生きた感性がすり減っているのだろうか?)

そしてこの、ジジババには何も起きていないかのように見えるらしい素敵な舞台は、沼尻竜典がびわ湖ホールの監督に就任して以来、ドイツものに力を入れたり、座付きの若手歌手(声楽アンサンブル)をソリストとして育てるべく尽力したり、コンヴィチュニーが来たら自ら練習指揮者を買って出たり、今のお客さんが何を望んでいるかを探るべく自らオペラを作曲したり、あれこれ手を尽くしたことの集大成でもあると思う。

(2日目をみたが、清水徹太郎がローゲ(←彼こそがこの舞台の主役なんですね)を立派に歌いきったことに感心した。)

ここ数年、東京の関西への嫉妬と、関西の東京コンプレックスがこじれにこじれて、関西では、せっかくいい企画を立ち上げても外野のバカに振り回されたり、力不足で自滅したりして、いつしか不幸な結末に至る例が散見されるが、今回はぶれることなく4部作をやり遂げて欲しいものだ。

それにしても、四部作を続けてみるとなると、改めてワーグナーの楽劇を勉強している気になりますね。ラインの黄金は、美女が誘拐されたり、地底に下ったりして、ギリシャ神話風の設定を北方神話でやろうとする意志がありありとわかるし、上でも書きましたが、ヴォータンが神話上の中心人物ではあるのだけれど、声のドラマとしてはテノールのローゲが主役然と振る舞うズレかたが面白い。(ローゲが登場して長々とレチタティーヴォつきのアリアを歌うところは、ダールハウスが「メロディーの理論と実際」で分析しているけれど、なるほどここは、ドラマが動き出す鍵になる場面なんですね。)

すっきり舞台が整理されているからこそ、ワーグナーを特殊な演目としてではなく、オペラのひとつとしてフラットに考える気になるんだと思う。いわゆるライトモチーフは、仰々しく大言壮語しなくても、舞台が整理されていれば、すっきり理解できる。

とりあえず、ワーグナーにとっては、ドレスデン時代までが普通のオペラ作家で、1850年以後は、ひととおり普通のオペラを書き終えたあとの第二の人生かもしれないと思う。ヴェルディにも似たようなところがありますよね。ドン・カルロやアイーダ、オテロ、ファルスタッフは「第二の人生」感がある。それは、アートが同時にエンターティンメントであり得る時代が終わって、余生や副業としてしかアートが成り立たなくなる時代の始まりだったのかもしれない。