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大阪のメセナと公共の現在

びわ湖ホールの小菅優リサイタルの批評を京都新聞に、いずみホールのイザベル・ファウスト、ジャン=ギアン・ケラス、アレクサンドル・メルニコフの三重奏の批評を日経新聞大阪版に書きました。2016年度の終わりに、ここ数年の、いずみホールに代表される小中規模ホールが関西楽壇の新時代への希望を託された最後の良心であり台風の目であるかのように勘違いされていた時代を総括する良い機会になったと思っております。

震災による日本全土の歌舞音曲自粛ムードと大阪維新による「文化芸術」イジメ、この国はもはやデフレから未来永劫脱却できないのではないかという不安と焦り、これらに音楽家・聴衆双方の世代交代(団塊世代の表舞台からの引退)が重なって、ここ数年、関西のクラシック業界はもうダメなんじゃないか、少なくとも、オペラやオーケストラは自前でやらなくても外来や東京に任せればいいんじゃないか、リサイタルには、外来であれ地元音楽家であれ、もうお客さんはこないんじゃないか、という停滞感があったように思う。

(ゼロ年代に関西を熱狂させた大植英次は9年で大阪から逃げ出しちゃったし、シンフォニーホールは売りに出されるし、新しいフェスティバルホールはあんまりクラシック音楽をやらないし……。)

いずみホールもウィーン楽友協会との提携を一度止めて、身の丈に合った自主企画を模索して、その代表がモーツァルトとシューベルトの特集であり、同じ時期に、カジモトから小菅優のベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏の大阪公演のマネジメントを引き取った。広報営業面でも、SNSを活用した新しいタイプの広報とオンライン予約をリンクさせて、このホールは、あたかも古い業界に見切りを付けて、新しい可能性に船出するかのようなイメージで突っ走った。

いずみホールがベートーヴェンのソナタ全曲を毎回出演者が交替するリレー形式で10年くらい前にやったときには、ピアノの先生や子供たちが通し券を買って毎回盛況だったのが、今度の小菅優の初回の客席は閑散としていた。ホールの広報担当者がネットの個人アカウントでなりふりかまわず顔と名前をさらして、「優ちゃんをみんなで応援しよう!」キャンペーンを張ったのは、このホールが古い体質を見限って新しい聴衆を開拓しようとする典型的な動きだったように思う。

(そしてこの動きは、偶然なのか意図的なのかわからないが、「朝比奈/大フィルのシンパや音楽クリティッククラブのお爺ちゃんに代表される男性優位の関西クラシック音楽界で、いずみホールは「女性による女性のためのコンサート」を推進します」と旗を振っているかのようにも見えた。世間でさかんに言われた「女子力」で難局を乗り切ろうとしている雰囲気があったわけだ。当時、関西の新聞各社の音楽担当記者もほぼ全員女性だったしね。)

さてしかし、どうやら親会社が元栓を絞ったことが背景にあったらしいこの「危機」が一段落したということなのか、いずみホールはウィーンとの提携を再開するとアナウンスしているし、小菅優は、ベートーヴェンを全曲弾いた実績で立派な中堅になって、ベートーヴェンを他の演目と組み合わせたプログラムでツアーを組み、びわ湖ホールでは、普通に、昔からのピアノ好きのお客さんたちが聴きに来ていた。

「関西クラシック業界の危機」なるものは、様々な偶然が重なってそう見えていただけの一過性の凪だった面が少なからずあるようです。

だとしたら、小菅優のベートーヴェンは、全曲演奏シリーズ進行中に騒がれていたのとは違う態度で、その意義を考え直す必要がある。

当時、いずみホールが仕掛けた騒ぎの渦中にいた大久保賢のような人たちが、そういう「総括」をしないで、そのとき騒いで騒ぎっぱなしであとは知らんぷりを決め込む、などということを私は許さない。

小菅優は本物の音楽家であり、森岡めぐみや大久保賢が対等に口をきくのはおこがましいくらい人間としても音楽家としても器が大きい。にもかかわらず、彼女と彼は、年若い女の子を年長者が導くかのような態度で小菅に接した。(あの人たちは、いつもそういう風に無根拠に態度がでかい。)それは腹立たしく屈辱的な光景でした。小菅がスケールの大きい音楽家であることは、ベートーヴェン・シリーズ初回を聴いた者にはわかっていたにもかかわらず、彼女と彼はそういうことをした。そして小菅の真価は、いまや誰の目にも明らかになりつつある。きっちり落とし前をつけていただきたい。

京都新聞に小菅優リサイタルの評を書いたのは、そういうことです。

いずみホールの自主事業は、ウィーンとの提携という大看板(そもそも建物が楽友協会ホールを模している)を取り去ると、実質的には、80年代以来の商業化した古楽(ピリオド・アプローチとかHIPとか言われるような)と現代音楽が両輪である。80年代から古楽の旗振り役をずっと続けている礒山雅と、ポスト前衛時代の日本の作曲業界で一番元気のいい西村朗の2人がこのホールの音楽面の相談役なのだから、それは何ら不思議なことではないし、見ていればすぐにわかることである。

ただし、停年のある公的機関や企業の役職と違って、こういう仕事はいくつになってもできる。そして今では礒山も西村も還暦を超えている。いずみホールでこの3月までランチタイム・コンサートを続けて今回が最終回となる日下部吉彦は、さらに上の世代だ。朝比奈隆風の古い老人パワーへのアンチであるかのように活動を展開してきたいずみホールが、今では、もうひとつの老人力をもり立てる態勢になりつつあるわけで、フェスティバルホールの大阪フィルの指揮者は尾高忠明、シンフォニーホールの大阪交響楽団には外山雄三、関西フィルには飯守泰次郎がいるわけだから、大阪では、主要民間クラシック音楽団体が、それぞれの老人力を競い合う態勢になりつつある。いずみホールは、むしろ、老人力競争の先端を走っていると見えなくもない。

(大阪の自治体には橋本や松井の若い維新の会がいるので、現在の大阪における「官」と「民」は、強権的なポピュリズムとリベラルの闘いというより、ルールに従って若返りつつある「官」vs自己資金で団塊老人が生きながらえる「民」の構図になりつつある。佐渡裕を擁する兵庫、広上・高関・下野の三羽がらすの京都、沼尻竜典の滋賀と比べたときの大阪の沈んだ感じは、むしろ、「民」の団塊老人たちが原因ではないだろうか。大阪の民間文化を老人が支配する体制は、朝比奈隆の頃も今も、基本的には変わっていないように見える、ということです。)

ここ数年にわかに注目されて頻繁に来日しているイザベル・ファウストは、HIPと現代音楽をごく自然に咀嚼できる知性と技量と真摯な人柄が売りの人だから、いずみホールがシューベルト特集の目玉企画をイザベル・ファウストに託したのは自然の成り行きだろうと思う。ホールを取り仕切る2人の老人のどちらにも気に入られるであろう「養女」が見つかった恰好である。

ところが、彼女に任せたら、ものすごく渋い演目を、びっくりするくらい地味なスタイルでまとめて来たわけである。ロビーでは、休憩中に中年男子たちがまるでネット掲示板かと思うマニアックな話題を熱心に語り合っていたので、広報営業面でも、近年のいずみホールの取り組みが功を奏して、「ネットベースの新しい客層」(平たく言えばクラオタである)をきちんとつかんでいたのだろうと思うけれど、しかし、これでよかったのでしょうか?というのが、この公演についての私の感想です。

批評の中身は読んでいただければわかると思うので、ここでは繰り返さない。

しかし、いずみホール公式ツイッターの「なかの人」と、この公演の解説をプログラムに寄稿した堀朋平には言いたいことがある。

140文字という膨大な文字数があるにもかかわらず、外部著者の署名入りの批評の紹介ツイートで執筆者名を落とす、というのは、どういうことなのでしょうか? もしかすると、「なかの人」は日本語が不自由で、文字を削る力がないのでしょうか?

潤沢なスペースを与えられているにもかかわらず、コンサートのパンフレットの曲目解説にあってしかるべき情報をばっさり落として、自意識過剰で居住性の悪いデナイナーズ・マンションみたいな文章を書いてしまった堀さんともども(3人の作曲家の晩年の三重奏曲、というのが選曲のコンセプトなのだから、各曲の作曲年と、それがその作曲家の生涯のどのような位置にあるのか、ということが、読んですぐにわかるように文章を工夫しないとダメでしょう)、わたくしが715文字(13字×55行というのが日経の毎回の指定文字数です)に多くの情報を盛り込むためにどのような技術を駆使しているか、それくらいのことは読んですぐにわかるくらいになってから出直していただきたい、と私は本気で呆れております。

私の批評は、「メセナをディレッタントのナルシスティックな遊び場にするな、ばかやろう」の精神で書かれております。

いずみホールは、神経過敏すぎるのではないかと思うくらい生真面目なところがあるかと思えば、お客さまから「杜撰」とたしなめられてもしかたがないのではないかと思うくらい緩いところがある。そのチグハグかもしれない二面性が「社風」であり、そこが愛されているのかもしれないけれど、それが事業の足かせになる局面があるとしたら勿体ないことだと思う。

私企業が自社資金で事業を展開しているのだから、そのミッションに他人が異議を唱えても仕方がないし、私はそんなことを言ってはいない。どうぞ自由にやってください。

でも、事業体が公式に掲げたミッションがどのような結果を生んでいるか、実際の運用が円滑かどうか、というのは、公然と外部から見えているし、そのような透明性・公開性を担保するのが公益事業というものだろうから、そこは、第三者による自由な論評の対象となっていいはずですね。

こうして、メセナ事業が「批評」の対象になる。

「批評」は、メセナ事業を行っている財閥系財団と新聞社との企業同士のおつきあいとして紙面に掲載されているわけではないし、だから、主催企業が公式コメントとして発信する文章が主催企業から掲載新聞社への「ありがとうございました」という礼状の文体に収まってしまい、批評を個人の文責で寄稿している外部著者名が欠落するのは、それでいいと思うのもあなたがたの自由ではあるけれど、非礼の疑いがあると思います。一般論として。