写真と音楽学といわゆる「遠近法的倒錯」のこと

楽譜の筆跡やインクの色に着目した「科学的」な楽譜校訂であるとか、そもそも、音楽文化における記譜・楽譜の意義であるとか、という議論も、対象は中世以来の写本等まで遡るけれど、おそらく「写真以後」の発想だろうから、音楽学は、録音技術や異文化との接触(ただし後者は20世紀の現象と言うより十字軍や大航海時代やもっと前からずっと続く「長い周期」の歴史現象であり、20世紀だけをクローズアップして論じるのは性急だろう)だけでなく、写真を前提とするメディア現象だと思う。

しかし、そもそも近代音楽学は、芸術学のヒエラルキーのなかで美術史をモデルにして整備された経緯があり、写真からの影響と、写真によって誕生した美術史学からの影響を切り分けるのはやっかいだと思います。140文字で事態を簡潔に言おうとするから議論を単純化したのだろうけれど、音楽学というディシプリンのメディア論的基礎は、「既に常識である」とまでは言えないと思う。

あと、「メディアが知を更新する」というような「遠近法的倒錯」の指摘は、最初の「きづき」におけるインパクトがある反面、「ここにもそれがある」「あそこにもそれがある」という風に、その先の議論が金太郎飴になりやすい。(「言語論的転回」の指摘や、カルスタ・ポスコロの「伝統はすべて近代の産物である」論がそうであるように。)

美術史の誕生における写真の意義を指摘した論考が1989年に出ているそうだが、ここで問われるべきは、おそらく、「なぜ1980年代に人は知に対するメディアの関与を自覚するようになったのか」ということだと思う。

近代が抱える「遠近法的倒錯」を指摘するのが得意なカルスタ、ポスコロ、メディア論は、それ自体が1980年代的な知であることを忘れがちである。そこには、もうひとつの「遠近法的倒錯」の危険があると思います。

ところで、ここまでこの文章では、参照元に従って「遠近法的倒錯」という柄谷行人語を使ってきたが、この言葉は英語でどういう風に言えばいいのでしょうか?

柄谷は、遡行 retrospective によって遠近法 perspective を批判する発想をニーチェに学んだことを臭わせていたかと思いますし、ニーチェの論争的な文体からすれば、こうした主張が「倒錯 perversion」の語と結びついた用例を見つけることができるのかもしれませんが、「遠近法的倒錯」の語は欧米語と対応させづらいように思います。perspective perversion と言っても、たぶん、通じませんよね。

Wikipedia 英語版の Kojin Karatani の項目には、スラヴォイ・ジジェクが柄谷行人から「parallax view」のコンセプトを借りた、との記述がありますが、もしかすると、柄谷の著作の英語版では、日本語の「遠近法的倒錯」の語が「parallax view(錯視ですね)」と訳されているのでしょうか? つまり、日本語圏における評論家柄谷行人はニーチェ風に「倒錯」を語る人だが、英語圏に流通する柄谷行人は、perversion を表に打ち出してはいないことになっている、とか。

「遠近法的倒錯」といういわく付きの概念は、書誌学的にスクリーニングして、別の言い方にパラフレーズしたほうがいいんじゃないだろうか。