時間芸術とタイムトライアル

ひとつ前のエントリーは、

「受験勉強は、長文の論述問題(片山杜秀が日本史・世界史の入試問題に関する新書で取り扱ったような)を含めて、時間を区切って効率的なポイント・ゲットを競うタイムトライアルなのだから、幼稚園小学校から大学院まで、数度にわたる選別試験でタイムトライアルに最適化した人材を集めて、その頂点に学位を位置づける制度設計をすれば、タイムトライアルは反射神経という老化の影響を受けやすい能力のウェイトが大きいのだから、学位取得時が能力のピークで、あとは劣化を待つのみ、ということになりやすい」

という話だと理解していただいて差し支えない。

そして現在の日本の高等教育が、OECD各国の比較における順位とかいう駄弁とは関係なく、質の問題として見たときにはそのような方向で相当に洗練されていると言えるだろうから、日本の現在の大学教員は、文科省の標語を受け入れるかどうかにかかわりなく、実態として、スーパーグローバルな「タイムトライアル人材」なのだと思う。

これは、現在の日本の大学教員とその予備軍が、まさに吉田寛がそうであるような「ゲーム万能主義者」になるのは、何ら不思議ではない、ということでもある。

ところで、吉田寛は東大教養の表象文化論の卒論でジョン・ケージを扱ったらしい。「4分33秒」の作曲家であり、東大の先輩、庄野進が「枠と出来事」というモデルでその活動を解読しようとした人物である。

物理的時間に代表される「枠」を設定することで、作者や奏者の「意図」や「表現」を括弧にいれた豊かな音響的イベントが発生する、という庄野進の解釈モデルは、今から思えば、まさしく、タイムトライアルの詩学である。その意味で、ケージからビデオ・ゲームへ、という吉田寛の歩みは、彼を「タイムトライアル人材」だと想定すると、まっすぐな一本道なのかもしれない。

しかしそれじゃあ、ケージとゲームの間の大学院時代に吉田寛が取り組んだ「音楽」はどうか?

おそらくわたしたちは、「タイムトライアル人材」の人生観と、20世紀の「時間芸術」論の関わりを検討せねばならないだろう。

さしあたり、音楽を「時間芸術」というタイムトライアル人材好みの枠組で捉える視点は、録音技術(有限の物理的な素材に音響の特性を記録する技術)ありきであって、時間芸術が録音技術を生み出したのではなく、録音技術が音楽を時間芸術と捉える視点を可能にしたのであろう、という、「遠近法的倒錯」論が出てくるだろうが、それは、話のトバ口にすぎまい。

(ちなみに、吉田寛はビバップ全盛期のジャズ音源のコレクションが趣味だと公言している。ビバップとは無数のセッションの集積なのだから、ここにも、彼のタイムトライアル好きが露呈していると言えそうだ。)

「時間芸術」論とは何だったのか、そして、ゲーム的なタイムトライアルを参照したとき、どのように議論を更新できるのか。吉田寛先生にこそ、論じて欲しい気がしないでもない。

(「時間芸術」論という20世紀的な枠組からこぼれ落ちる音楽のあれこれに視線が届いていないとこの議論を十分に展開できないだろうから、吉田寛先生個人にとっても、一度は見切りをつけたはずの「音楽」なる面妖な営みに新たな視点から取り組むきっかけになったりはしないだろうか。)

むかし、あるところにゲームとおんがくをあいするおとこがいた。

ジョン・ケージというタイムトライアル・ゲームのようなおんがくで、トウキョウダイガクのキョウヨウガクブから、ガクシゴーをゲットした。

こんどは、ハンスリックのオンガクビロンのたくさんのヴァージョンをみくらべる「まちがいさがしゲーム」で、トウキョウダイガクのブンガクブからビガクのシューシゴーをゲットした。

ドイツということばが、ごひゃくねんぶんのおんがくのほんのなかをぼうけんするRPGは、ちょっとじかんがかかったけれど、ハカセゴーをゲットした。

「ハンスリックの形式概念が物理学や心理学を踏まえて鍛えられたことは確かだが、それは音楽が自然哲学と心理学に還元できることを意味しない」

とか

「音声中心主義を警戒するあまり、書かれた言葉のウェイトが過剰に大きく、ドイツにおいて、音楽と言語がリアルに鳴り響いた現場への配慮が欠けている」

とか

かんじをたくさんつかわれても、ぼくにはいみがわからない。

「ということで、ゲーム大好き人材さんはタイムアップでどこかに逝ってしまいましたから、みなさん、そろそろ音楽を再開しましょうか」