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アイロニーとユーモア、「あえて」と「ごっこ遊び」

アイロニカルな人はユーモアをアイロニーだと受け止めてしまう、という症状が、アイロニーとユーモアの差異の話を難しくしているように思う。そして、「あえて」というアイロニカルな構えを崩すことのできない人は、ごっこ遊びをフィクションだと受け止めてしまうのかもしれない。ケンダル・ウォルトンが「わたしはフィクションの語を使いたくない」と言っているのに彼のごっこ遊び論が「フィクション論」に分類されてしまうのは、この症状が相当深刻であることを告げている。

(蓮實重彦は何度も何度もアイロニーとユーモアの差異を言っているのに、東大生は蓮實先生の嫌味をアイロニーだと受け止める、という現象があって、蓮實がフィクション論を書いたのは、それこそ、そういう東大生への「嫌味」なのかもしれませんな。アイロニカルな構えは、何かに「なる」ことができない(何にも「なる」ことができない)牢獄、という感じがします。)