音楽における近代の「日本留学」と東アジアの近代化論

「1900-1950年の東アジアとオーストラリアにおける芸術家曲」という学術シンポジウムと連動したレクチャーコンサート「“芸術家曲”の誕生と音楽の近代」という催しを聴いて3つの感想を抱く。

1. オーストラリアの位置づけがよくわからない。現在の北米の世界戦略には「環太平洋」(Transpacific, TPPのTPですね)という枠組があるが、今回は北米・南米が外れているので環太平洋とは言えないし、当該の時期(1900-1950)には国際協調が総力戦になだれこむ「ブロック経済」、地域ごとの囲い込みがあったことが知られているけれど、この時期のオーストラリアは、北米が唱えた「パン・アメリカ」(北米と南米を一体とみる理念)でもなければ、日本が後付けでその盟主を標榜した「大東亜」でもないように思う。たまたまアジアとの連携を模索する日本在住オーストラリア研究者がこの共同研究を主催した、という以上の意味が「東アジアとオーストラリア」という組み合わせにあったのかどうか。

2. 「大東亜」概念の批判的再検討に関わるかと思うが、明治から大正にかけて、東アジア諸地域からの日本留学という現象があったようだ。東京美術学校や東京音楽学校もアジアからの留学生を受け入れたらしい。しかし昭和期に入ると、一方で大日本帝国がアジア諸地域に「解放という名の侵略」を進めたわけだから、アジア諸地域から日本に何かを学びに来る行為を素朴に「留学」とは呼べなくなるし、他方で、音楽に関しては、東京音楽学校以外に東京や大阪に私立の音楽学校が複数できる。今回のコンサートで紹介された台湾、韓国、中国の作曲家のなかには、昭和期に東京の私立音楽学校で学んだ人が散見された。しかも、(今回は片山杜秀がプレトークに招かれていたが)昭和期の私立音楽学校には、ドイツ派の東京音楽学校に対抗するかのようにフランス派の作曲家がいて、彼らは同時に日本における国民楽派/在野の民族派でもあった。昭和前期に「日本で音楽を学ぶ」とはどういうことだったのか。

3. 今回、原則としてそれぞれの作曲家の国籍に準拠してそれぞれの母国語の歌詞で作品が歌われたが、「日本留学」した作曲家たちは当時、何語の歌詞に作曲して、それぞれの作品は何語で発表されたのか。個々の作品について、そうした書誌情報を添えて欲しかった。そうした情報がないと、個々の作品の分析が先へ進まないと思うので。

2. の観点を推し進めると、時田アリソンさんが以前から依拠しておられる「東アジアの近代化」という議論の枠組(西洋音楽が19世紀後半から20世紀前半の東アジアに、あたかも太陽のように広く平等に降り注ぎ、オーストラリアを含む各国・各地域に「芸術音楽」がすくすく育ったかのようなイメージ)自体が再考を迫られるのではないか。ポストコロニアリズムとはそういうことだったように思うのですが……。

(それにしても、この時期に江文也が単独でバルトークのような音楽を書いているのはすごいですね。)

会場で上野正章に出会ったら、「おや、元気かい」と言われ、変な感じがした。昨秋の学会で会ったばかりだが、何を言っているのか。どうやら彼のなかでは、「私は大学時代と何も変わることなく、細く長い研究者人生を着々と歩んでいる。同じ研究室に白石知雄という男がいたが、彼はもう「学会」や「母校」にはめったに顔をみせなくなった。道をふみはずした可哀想な先輩である」ということになっているようなのだが、その「四半世紀前から何も変わってはいないはずだ」の信念とは裏腹に、彼の頭髪のかなりの部分が50歳を過ぎて白くなっているのは恐ろしいことであった。日本音楽学会は、こういうクリーチャーにとって、居心地のいい場所であり続けているらしい。このままいくと、学会という組織は、平日の昼間にひなたぼっこをする公園のようになって、「高齢者福祉」という概念に接続するのではないか。

[追記]

上海バンドはメルボルンと似ている、というのが、オーストラリアを東アジアと比較するきっかけのひとつだったらしい、という話を関係者から聞いた。

だとしたら、比較の単位は「国」ではなく「都市」であったほうがよかったのではないか、と思った。英国居留地のある港町の横断的な比較、とか。

ナショナリズムの再検討と近代化論と都市論は、一挙に混ぜてやろうとすると、凡庸で薄い一般論に回収される危険が大きいと思う。