まるで交響曲のように聞こえる巨大な声楽作品

マーラーの千人の交響曲(いま気づいたが、関西で今も続く初夏のイベント「30000人の吹奏楽」はもともと「1000人の吹奏楽」だったのだから、イベント名はたぶんこの作品のもじりですね)の第1部は、ソナタ形式のように構成されてはいるけれど実体はラテン語典礼文による7人のソリストを伴う合唱作品で、第2部は、所作と衣装を伴わないけれど、ゲーテの戯曲「ファウスト」終幕に付曲された楽劇ですよね。

モーツァルト、ヴェルディのレクイエムやバッハのコラール・カンタータで、独唱・合唱がどんな歌詞を歌っているのかまるで聞こえない、とか、オーケストラが勝手に「シンフォニー」をドンチャン演奏して、コーラスが添え物として一生懸命そのあとを追いかける、というのはあり得ないと思うし、音楽劇のオーケストラピットの管楽器奏者が、今自分の吹いているロングトーンがどういう場面でどういう効果を狙っているのか、物語のあらすじやト書きや台詞を一切知らない、というのは、おそらくダメなプレイヤーだということになると思うのだけれど、広上淳一と京響は、そういう荒っぽさで押し切ったように聞こえた。

60周年のしめくくりだし、どうにかして歌詞の字幕をリアルタイムに出すのだろうと思っていたら、「物語はだいたいわかるでしょう」とプレトークで説明されて、プログラムに小さな活字で訳詞が出ているだけだったので、なおさら、オーケストラ側が声と言葉をオマケだと思っているんじゃないかと不審になる。声と言葉に対する器楽奏者の不遜・傲慢だと思う。最後にそれまで登場しなかった「8番目のソリスト」石橋栄実に高いところから一声歌わせればそれでいい、というものではない。

(die tiefste とか Liebesort とか、言葉を言葉として正面から受け止めて発話したら、あんな演奏になるはずがない。)

この曲の第2部を舞台化できないかと考えた人はきっとこれまでにも少なからずいるだろうし、ひょっとすると、実際にそういう試みが既にあるのかもしれないけれど、唖然としながら広上・京響の演奏を聴いて、びわ湖ホールでニーベルンクの指輪(京響がピットに入っている)が終わったら、スピンオフ企画として、沼尻竜典の指揮によるプロジェクションマッピング演出で千人の交響曲をやるといいんじゃないかと思った。

ほぼ主要なモチーフはどれも下降音形ではじまっているから、ラインの黄金の最後のノートゥンクの主題の上行は舞台の所作と相まって決定的な瞬間になる。(剣が地下から出てきて、ヴォータンがこれを引き抜く「上昇」の所作は、マニアやオタクの「謎本」めいたワーグナー解釈としては無理筋なのかもしれないけれど、音楽的には正しいと思う。)千人の交響曲の最後の主題が感動的なのも同じことですよね。それまでずっと「ミb→シb」「ミb→シb」とヴォータンが地底へ潜るような下降音形ばっかり聞かされてきたのが、ここでようやくメロディーが晴れやかに「上昇」する。そして導入部で暗示された隠者の祈りのようなコラールが、まるでバッハのコラール・カンタータの終曲みたいに、歌詞を伴ってフルコーラス歌われる。こういう仕掛けは、オペラやカンタータやリートのような声楽と同じ態度で鑑賞しないと楽しめないと思う。