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式辞の舞台裏

東大卒業式の式辞が深いと話題に「善意のコピペや無自覚なリツイートは......」(全文)

東大卒業式の式辞が「深い」ことになっているらしいのだけれど、ここで語られている「第三の間違い」を石井洋二郎はどうやって突き止めたのだろう?

じつは、大河内総長は卒業式ではこの部分を読み飛ばしてしまって、実際には言っていないのだそうです。原稿には確かに書き込まれていたのだけれども、あとで自分の記憶違いに気づいて意図的に落としたのか、あるいは単にうっかりしただけなのか、とにかく本番では省略してしまった。ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまった、というのが真相のようです。これが第三の間違いです。

大河内がこの話を「裏話」としてどこかに書いていて、それを石坂が発見した、というのであれば、文献調査をとことんやれば真相は突き止められます、という教訓になるが、もし大河内がこの話をどこにも書いていなくて、「ここだけの話だけれど、実はこうだったんだよ」という暴露話が東大上層部あたりで代々語り継がれているのを石坂が聞かされた、というのであれば、「やっぱりしかるべき地位を得たり、しかるべき場所に出入りできる身分にならないと、真実はわからないものなのだなあ」ということで、東大教養部の卒業生はそういう地位や身分の候補生なのだからいいけれど、これを部外者として聞かされる「ネット民」にとっては、共感できる話にならないのではなかろうか。

大河内の美談に「裏」があるのとは違った意味で、石坂の式辞にも「裏」がありそうな気がします。

東大人にそう簡単にだまされてはいかんよ。

(しかし、昔は東大や京大の入学式・卒業式の総長式辞が新聞に大きく出ていたような気がするけれど、そういう儀式を新聞は今はもうやめている、ということでいいのでしょうか?)

[追記]

細かく考えると、疑問はさらにいくつも出てくる。

(1) 「ところが、マスコミはまるでこれが大河内総長自身の言葉であるかのように報道してしまった」と石坂は言うが、当時の新聞記事の紙面・文面は具体的にどうなっていたのか。リードに大きな活字で「太った豚より……」の格言が出て、慌て者は大河内の言葉と勘違いするかもしれないが、小さい活字の本文を読むとこれがJ. S. ミルの引用だとわかる、という風になっていたのか、本文にも、これがミルの引用であることを示唆する文言は一切入っていないのか。そして新聞といっても全国紙だけで複数あるわけだが、すべての新聞が横並びで雑な記事を書いたのか?

(1b) また、その新聞記事のサイズ(文字数)はどれくらいだったのか。紙面に余裕があったにもかかわらずミルの引用である記述がなかったとしたら記者の不見識だが、紙面に余裕がなく一文字でも削りたい事情があったとしたら、ミルの引用である記述が削られたとしてもやむをえなかったのではないか?

(2) そしてそもそも、式辞の予定稿が事前にマスコミに配布されたのは何故だったのか? 当時の新聞は活字を植字工が拾っているから今より入稿の〆切は早かったと思われる。午前中に卒業式があって、その速記を待っていたら夕刊に間に合わない、というような事情があったのか? あるいは、大学の卒業式にわざわざ記者を派遣する余裕(ニュースバリュー)がないと判断されていて、むしろ、新聞で記事にして欲しい大学側が率先して、一種のプレスリリースとして予定稿を各社に配布していたのか。

(2b) さらに言えば、東大の総長式辞において、書き言葉(予定稿)と話し言葉(本番のスピーチ)は通常どの程度一致しているものなのか。国家元首の政治的メッセージのような公式発言では、書き言葉と話し言葉が一致していないと何かと混乱を生むだろうから、細心の注意で文字と発話を一致させようとするだろうが、東大総長の式辞も、同様に文字と発話が一致している前提で遂行されるものなのか。だとしたら、それはどのような理由によるのでしょうか? 書き言葉と話し言葉を統合することによる「権威」を目指しているのでしょうか、それとも誤りやまぎれのない透明性=「真理」の探究なのでしょうか?

(2c) いずれにせよ、大河内は当該の卒業式において、書き言葉(予定稿)と話し言葉(実際のスピーチ)を一致させることに失敗したわけで、しかも、どうやら、この式典に列席した者は、誰一人そのことを気にすることなく受け流したわけですね。通常、このような事態は「儀式の形骸化」と呼ばれると思うのですが、石坂の今回の式辞は、そうした「形骸化」を問題視することなく、あたかも、形骸化した儀式に振り回されたマスコミ、読者、一般大衆が一方的にバカであり、彼らの愚かさを戒めるかのような他責的な話法になっている。石坂が憂慮する「コピペによる伝言ゲームの蔓延」は、はたして、このように自らの責任を不問に付した他責話法によって解消されるものなのだろうか?

天皇は、事前に配布された予定稿と完全に一致した「おことば」をビデオで配信することによって、象徴天皇制の責務の苛酷さを遂行的 performative に国民に訴えた。天皇が尊く、東大総長はそれほどでもない、といった価値の高低を言うつもりはないが、書き言葉と話し言葉の不一致がもたらす混乱をめぐる石坂のスピーチは、その不一致を実証する資料が明示されていない点を含めて、天皇の「おことば」と比較してその特質を検討するのがいいんじゃないかと私には思われます。

東大総長が何かの「象徴」なのだとしたら、それは一体何を象徴 represent しているのか、そしてその representation は、いまも円滑に機能していると言えるのか。

(ところで、現在の東大では、本郷の卒業式とは別に、教養部は教養部だけで駒場で卒業式をやって、そこでは東大総長ではなく教養部長が式辞を述べることになっているかのように見えるわけですが、この本郷と駒場の関係は、何がどうなっているのでしょうか? それとも、駒場の卒業式で、午前中の本郷での式典に続いて、学部長とは別に総長も式辞を述べたのでしょうか?)

[追記2]

しかもこれ、平成27年3月の式辞なんですね。