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大阪を掘る者、埋める者:2017年の武智鉄二と大澤壽人

豊中市の国有地を掘ることが現在の地価に影響するとはどういうことか、というあたりが焦点になっているようだが、思えば、現在の大阪城(の石垣)は、豊臣の大坂城を徳川が埋めてその上に築いたことが知られている。(ブラタモリでは意外な事実のように言われていたが、今の大阪の人たちの間では、現在の石垣が徳川製だと比較的よく知られていますよね。)

そして今ではまだその実態を知る手がかりすら得られていない状況だと思うが、豊臣の大坂もまた、その前の石山本願寺を更地にしたあとに築かれたのだから、大阪のデベロッパーは何層にも、不都合なものを埋める作業を数百年にわたって続けているのかもしれない。

掘るところまでいかずとも、街の地形から歴史の手がかりを得るのがブラタモリのコンセプトだが、ひと頃流行った大阪学が、ブラタモリと連携できるような「高低差マニア」にシフトする分水嶺が中沢新一のアースダイバーだろうと思う。大阪は、掘れば色々なものが埋まっている土地らしい、そこに最近のトレンドがありそうだ、というわけである。

しかし、色々なものが埋まっているのは、過去の諸々を「埋めた者」がいるということ、一切合切を地中に埋めて、「なかったこと」にしなければ先に進めなかった事情が積み重なっている、ということでもある。

千葉雅也は、大阪を「闇鍋」的な街だと言うが、何が出てくるかわからないヤバさは、掘って出てきたものそれ自体がヤバいということもあるかもしれないが、それと同じかそれ以上に、「誰が何のために埋めたのか」という経緯の側に政治が露呈するからだろうと思う。

たとえば、真田丸の臆病で人情に厚いがやるときは徹底的にやる家康像、矮小な善人が一番恐い、というイメージは、徳川が豊臣の大坂の痕跡を全部埋めてしまったのは何故か、と推論した先に出てくるのだろう。掘って何かが出てくると、お江戸のセコさが露呈するわけだ。

(私は、天王寺のあべのハルカスが東京スカイツリーの向こうを張って高さを誇ったり、梅田のグランフロントが東京的な発想でビルをデザインして、東京系企業の出店を募っているのは、悪くない試みじゃないかと思っているのだが、そういうのに「下から目線」でツッコミを入れるのが「大阪的」だと相変わらず思われているようだ。例えば、内田とその信奉者である増田が、「グランフロントっていったい何語なんだよ、あったまワルい!」といつまでも言い続ける、とかね……。こういうのは、誰かが大阪の何かを埋めてしまおうとすることへの「反知性主義的」不信感なんでしょうね。)

でも、昭和の大阪の音楽を少しずつ掘り進みつつある過去数年の乏しい経験では、だったら、あっけらかんと、掘り出してしまえばいいと思う。

昨年の芸術祭の関東の音楽部門は柴田南雄コンサートが大賞を得たが、レコード部門では、武智鉄二のSPコレクションの復刻が大賞を受けた。

武智鉄二の「発掘」では、数年前に、東京の人たちが、実験工房と組んだ前衛演劇であるとか、60年代以後の(今となっては見るのがつらいディレッタント的な)前衛エロス映画であるとか、インテリ風ではあるがキッチュでもある戦後の取り組みの再評価を仕掛けた。明治学院の四方田犬彦がその旗振り役だった。

でも、武智鉄二には、その「前」があるわけですね。戦前から関西で伝統芸能のパトロン、評論家として活発に動いていたその痕跡がSPコレクションの復刻として「発掘」されたわけで、それは、思惑で動く「仕掛け人」たちの制御を突き抜けてしまう物件を掘り当てた事例と位置づけることができるように思う。

(武智鉄二のSPは早稲田の演劇博物館に寄贈されているそうだが、井野辺潔が在職した関係で大阪音楽大学音楽博物館が所蔵していた義太夫関係の貴重資料も、昨年、早稲田に移管されている。早稲田は、大阪を研究するときにも無視できない場所になりつつあるようですね。)

また、大阪ではなく関西(神戸)の事例だが、サントリーのサマーフェスティバルで、今年は片山杜秀が大澤壽人のオーケストラコンサートを企画しているようだ。

戦後、朝日放送を拠点に中間音楽に活路を見いだしつつあった大澤壽人は、関西の有望株だったはずだが1953年に急死して、これを好機と主導権を奪った朝比奈隆と関西交響楽協会グループの躍進によって、忘却の彼方へと埋められてしまったわけですね。

2000年代に大澤壽人の「発掘」が進んだわけだが、これは朝比奈隆が2001年に死んで、彼が埋めたものを掘り出すのが容易になったのと無関係ではないかもしれない。徳川が豊臣の城を埋めたように、壮年期の朝比奈は、大澤壽人を埋めて、なかったことにした形跡があるわけだ。朝比奈が大澤について生前ほとんどコメントを残さなかったことは、自らが世に出る前に死んだ貴志康一の顕彰活動に積極的だったのと比較すると、色々考えさせられる。

(今では、朝比奈隆自身についても、晩年にマネジメントがプッシュした「ブルックナー指揮者」としての活動だけでなく、1970年代以前のオペラ指揮者としての仕事ぶりが「発掘」されつつある。)

でも、たぶん、そこで話は終わらない。

大澤壽人は、パリでコンサートを成功させる等の実績をひっさげて華々しく帰国したので、おそらく帰国当時のイメージは「フランス帰り」だっただろうと思う。深井史郎の反感を買ってしまったのは、「フランス帰り」という宣伝文句が悪く作用したのだろう。東京で自作を披露すると、ラヴェルを愛する深井から「パリ帰りというけれど、大したことはない」と言われたりしたようだ。大澤が、その後、「神風」(←特攻隊ではなく朝日新聞の民間機です)といった国威発揚の時代を経て、戦後、ジャズと中間音楽に横滑りしたのは、「おフランス」路線がうまくいかなかったせいもあるんじゃないかという気がします。

要するに、「フランス派」としての大澤壽人は、深井史郎のような東京のフランス派との競争に敗れて、「埋められた」形跡があるわけです。大澤の戦後のいかにもGHQ占領下っぽい中間音楽路線を埋めたのは朝比奈だが(朝比奈は日本の再独立後にスタートした関西歌劇団の創作歌劇を「新しい国民演劇」とナショナリスティックに宣言していた)、大澤の戦前の阪神間山の手風の「おフランス」を埋めたのは(本来ならば協力してもよさそうな)東京の在野のライヴァルたちだと思われる。大澤壽人は、かように面倒な案件なわけである。

(それにしても、戦前の在野のフランス派から東京芸大の池内楽派を経て現在の大久保賢に至るまで、「おフランス」な日本人は、どうして、お互いに足を引っ張り合うのが好きなんですかね(笑)。)

一方、今度のサマーフェスティバルで「世界初演」と喧伝されている作品は、1933/34年にボストンで作曲されている。大澤壽人は、パリへ行く前にボストンに渡り、ボストン大学とニューイングランド音楽院で学んでいる。彼は、パリ帰りというより、ボストンで修行した「北米派」かもしれない。

(ニューイングランドは、音楽取調掛の伊沢修二らが「唱歌」の構想を学び、戦後はバーンスタインを頼って小澤征爾や大植英次や佐渡裕が渡った土地だ。大澤壽人(小澤征爾に先駆けてボストン交響楽団を指揮した記録が残っている)を両者の間に置くと、日本の「ニューイングランド楽派」を語ることだって、不可能ではないかもしれない。関学や神戸女学院をはじめとして、ニューイングランドから日本へ派遣された人たちが日本にキリスト教系の学校を設立した例もあり、大澤壽人は神戸のそういう風土のなかで育った人だ。これは、大澤壽人コレクション受け入れ当時の神戸女学院付属図書館長だった濱下昌宏先生の記者発表でのスピーチにヒントを得たアイデアですが。)

今回指揮する山田和樹が昨年、東京混声で取り上げたミサ曲もボストン時代の作品だったはず。

片山杜秀が2000年代に大澤壽人を発掘できたのは、彼が日本における在野のフランス派に詳しかったからですよね。そして片山の取り組みは大変な成果をあげたわけだが、大澤壽人に関しては、「フランス派」の色眼鏡を通したイメージが表に出てしまったきらいがある。

(片山杜秀の当時の論調には、今から振り返ると、上で述べた武智鉄二再評価における四方田犬彦に似た戦略が感じられる。四方田が武智の後半生に焦点を当てて彼を「前衛」と持ち上げたのに似た、いかにも90年代サブカル的でゼロ年代クラオタ的でもある「恣意的なアングル」(宣伝・煽り目的の)だと思う。)

今回、片山杜秀が山田和樹と組んで、北米ボストンの大澤壽人を発掘して「ひらく」のは、そうしたゼロ年代的な煽り・プロパガンダの焼き直し・二番煎じではないからこそ意味がある。たぶん、山田和樹のキャラクターが片山杜秀を新しい場所へひっぱっているのだろう。

あっけらかんと掘り進めるのが、いかに大切かということである。