21世紀の詩と散文

SNSにあまりにも特化して言葉をつむいでいると、140文字の散文詩、限定された文字数と言葉の特定の流通形態においてのみ意味や効果をもつ言葉の連なりを生成する技術が発達して、無意味もしくは非意味に逢着して消耗することが知られている。

140文字の散文詩を複数組み合わせて編集する、というやり方で自由散文の世界へ出る方法が模索されており、人間がそのような編集を行うツールとしては、古くはカードを使った発想法が流行り、最近はアウトライン・プロセッサーが結構普及しているようだし、AIによる自然言語の運用には、そのような編集を高速化してビッグデータの解析を行っている面があるようだ。

SNSが指し示す一種の「詩」(自律言語という20世紀的・「言語論的転回」以後的な意味における)の無意味・非意味のブラックホールは、そのようなやり方で上首尾にふさがるのだろうか。そしてそのとき、「近代」が発見したタイプの「詩」(とりわけ固有の韻律を確立できなかった日本の口語文によるそれ)はどうなっていくのだろう。

(これは、要するに、twitterで面白く書こうとすると誰もが増田聡になってしまう、という症状、そして twitter が一発芸的な宣伝・プロパガンダ(もっともらしくポスト・トゥルースと呼ばれることもあるような)で埋め尽くされてしまう現状に、私たちはこれからどうやってつきあっていけばいいか、ということなわけだが。)