「余は如何にしてポモとなりし乎」

Kindle版をスクリーンリーダーで聞き終わったときに、そういう言葉が思い浮かんだのでメモしておく。内村鑑三の著作(1895年刊行というから阪神大震災と地下鉄サリンの95年の百年前か)は読んだことがないので、読まずにパロディではあるが。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

半生の自伝といっても、自伝と呼ぶにはエピソードと経験がちょっと薄い。そして経験が薄い人が書くハウツー本は、普通は信用されないわけだが(「信用」は本書後半の大きなテーマのひとつになる)、足りない信用は著者が哲学研究者&有名大学の教員であることを担保に積んで補填されている。最終章はほぼ大学教員としての指導案のサンプル集だ。いわば、大学から金銭の助成を受けるかわりに大学名と肩書きを質に入れたようなものだから、著者自身が懸命に宣伝するのは質草を取り戻すために働いているのだろう。

そう考えると、同時期に出た経験豊かな「社長東浩紀」の掛け売りなしの現金取引な自主製作とは、ペアといっても反対の極かもしれない。

雇われ人の人生において、自由とは心の問題であり、言葉の問題になる。ものは考えようだから、ものの考え方を豊かにしよう。そうやって、上流と下流への分断が指摘される21世紀に雇われ人の中間社会を再生もしくは再編しようという提案なのかなあと思う。戦後20世紀後半の日本の中間社会発展期の評論家たち(音楽でいえば吉田秀和とか)が、旧制高校的な教養主義をサラリーマン読み物(音楽でいえばレコード鑑賞指南)に再編したのを思い出す。

(増田聡先生みたいな立ち位置の人こそが、こういう後進を断固応援しなきゃいかんのじゃないかな。死に舞をイジメ抜いた失敗を繰り返してはいけない。九州の増田や茨城の千葉が支えて吉田が高いところへ上がる、みたいのが美しいチームプレイだろうと思う。

思えば、スターとして天寿を全うしたフーコー、デリダと、復習教師から始めて役割を終えたと判断したときにこの世から自ら身を引いたドゥルーズの関係もそういうものだったんじゃないか。日本で「未来学」が言われたのとほぼ同時期のフランスに登場したポストモダン思想は、現在から振り返れば、「体制」「右翼」はもちろん「反体制」「新左翼」からもきわどく身を翻したところが受けているように思われ、だからポスト冷戦で帝国化した北米でも安心安全に使えた。ポストモダン思想は、ヨーロッパにも、日本と同じく北米の庇護の下での高度成長期があった証拠みたいなものかもしれない。だとしたら、21世紀の中間社会再生論として使うのが具合がいいんじゃなかろうか。レヴィ=ストロースのようなレジスタンスとレヴィナスのような宗教家が足を引っ張り合っていた戦時中の話をほじくり返すのは、もういいよ。浅田彰が、色々思うところはあるだろうけれども千葉雅也に合格を出したのは、『構造と力』を書いたころの鬱屈を思い出して、出口はそこだ、ようやくそこに気付いたね、と思ったんだろう。)