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楽曲解説をどう書くか

東条さんのように、「お客様へのわかりやすさ」を錦の御旗に掲げる人たちが、惰性と前例踏襲にこだわるあまりに、むしろ堅苦しい「教養」を手つかずに温存してしまい、反対に、「わかりやすさ」とは違う価値に着目する努力のほうが、教養の堅苦しさを別の姿に組み替えていく場合がある、ということだと思います。

古語・雅語を字幕でどう翻訳するか - 仕事の日記

と書いた先の文章の直接の話題は字幕の翻訳だが、コンサートの曲目解説にも似た問題があると私は思っている。

昨日の西宮のオーケストラ演奏会の曲目解説は東条執筆だったが、エルガーの2つの大作が並ぶコンサートの解説としては、「わかりやすさ」を目指して「第2楽章は夢のようにきれいです」と書くだけでは、かえってお客さんを音の大海に放置する不親切なガイドになってしまうのではないかと思うのです。

(エルガーやラフマニノフのように保守的と形容されがちな20世紀前半の音楽家は、書いている音が、いかにも東条が気軽に語れそうに「わかりやすい」一方で、彼らの置かれている立場や彼らが頭のなかで考えていたであろうことが面倒くさい人たちだと思う。もしかすると、当人はごく自然にそういう風に振る舞って、そういうことを考えたのかもしれないけれど、それから100年経った現代人に事情を説明には手間がかかる。私は、一昔前まで国民楽派と呼ばれていたドヴォルザークやチャイコフスキー、グリーグやシベリウスのあたりから、そういう種類の、音を聴くのは簡単だけれどもその背景を納得するのが難しく面倒臭い音楽/音楽家の系譜がスタートしていると思う。

もし、現代のコンサートに「解説」を添える意味があるとしたら、そういう風に、音だけ聴いたらスルーできないことはないけれども、そこからこぼれおちてしまうであろう事情を伝えて、彼らとその音楽を現代に架橋することを目指す以外に道はないと考えています。そうじゃないと、現代のコンサートは歴史から浮き上がった「バカ」が音に酔い痴れるだけの非生産的な遊び場になる。そういう遊びを好む老人たちからお金をむしりとるだけむしろとって、それでよしとするのは、商行為としては不正ではないだろうが、人間としてどうかと思う。もちろん西宮の演奏会に通っていらっしゃるお客様は「バカ」ではありません。「バカ」ではないお客様が、まるで「バカ」であるかのような枠組に収められてしまっていいのか、というのが、ここで私の言いたいことです。)

音盤やコンサートの訳詞や字幕が法人から個人への外注であるように、曲目解説も、通常、主催する法人が個人に外注する。「効率」と「わかりやすさ」に還元できない不採算部門を全部、外部の個人におっかぶせる体制だと言えなくもないでしょう。

字幕・訳詞の問題は、現在の日本のクラシック音楽の「法人化」の歪みのかなり重要なポイントだと私は思います。

(他方で先日のMBSが大阪フィルを扱った番組(まだ番組ホームページの視聴可能期間中だ)は、たしかにオーケストラが「法人」として振る舞う昨今の動向のなかにあるし、たぶん、「法人」としてのオーケストラの宣伝戦略の一環と位置づけた事業報告が可能な案件なのだろうけれど、番組としては、舞台に出る指揮者と奏者はもちろん、スタッフの福山さんも清水さんも家さんも服部さんも、すべての登場人物を専門職の個人として扱うところが「オトナ」の態度だったわけですよね。)