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山崎正和

最初の章の満州時代でいきなり引き込まれて、まちきれないので、途中をとばして、阪大美学科ができた頃1970年代後半の章を読む。

『演技する精神』は、阪大美学の演劇学普通講義をやりながらできた本だったと知る。(教科書に指定されていて、年度末にこの本を読んで論評するのがレポート課題だった。)当時、音楽学と演劇学は制度上「音楽演劇学」とひとまとめになっていて、演劇学普通講義は音楽学専攻生も必修で、まだ専攻に振り分けられる前の2年生でも受講できたのだが、私は3年生で受講登録しておきながらサークル活動に夢中で途中で放棄して、4年生のときにレポートだけ出して単位をもらった。

(私は、山崎先生のリズム論はちょっとおかしい、というようなレポートを書いて、成績はあまりよくなかったと記憶する。語りおろしのライフヒストリーによると、どうやらリズム論は、「演技する精神」=山崎演劇学の大事なポイントであるらしい。申し訳ないことをしました。いつか読み返します。)

当時はニューアカ・ブームの80年代で、「モラトリアム」でくそ生意気な文系学生に、山崎先生は、いわば、世間に受ける「客寄せ」としてここにいるんだろう、と思われていた気がします。実際、大学院に進んで、文学部大学院自治会(既に形骸化して前例踏襲で行事を回すだけになっていた)の幹事役が回ってきたときに、他大学の先生と交渉するのは面倒だし、山崎先生に講演をお願いして、当日生協の食堂などでチラシを撒いたら、文学部の院生ではなく他学部を含む一般学生で会場が埋まってしまい、自治会総会で文句を言われた。「灯台もと暗し」で、文学部院生はいまこそ山崎正和に耳を傾けるべきだ、みたいな発想の講演会として、お手軽なだけでなく、企画意図は悪くない、何なら、これこそあり合わせでやりくりするブリコラージュ、知の最前線ではないか、と強弁できそうに思ったのですが……。80年代の文学部大学院生は、まだ、観客動員数だけでイベントの成否を判断する、というポピュリズムに染まってはいなかったのです。

(ふと気になって調べたら、このとき一緒に自治会の幹事をやったフランス哲学の杉山直樹(一緒に山崎先生の研究室にお願いに行って、宣伝チラシは彼の手持ちのワープロ専用機で作ってコピーした)は、学習院の哲学の教授らしい。ベルグソンが専門だったのか。)

既に大学志望校が決まっていた高校3生の頃(1982年後半か?)、山崎正和がテレビで何か話していたので、死んだ父に、「阪大にはこの先生がいるんだ」と言ったら、しばらく黙って画面をながめていたが、あまり良い印象を持たなかったようだ。父がなんと言ったか、具体的には覚えていない。「いかにも評論家風に調子の良いことを言っているが、感心しない」ということだったような気がする。

父は芝居がかったことをしないし好まない人だから、ああそうですか、と当時の私は少々ウンザリしたのではなかったかと思う。

山崎正和は昭和9年生まれ。私の父よりひとつ下で、京都に生まれたが、祖父が熊本医大の二代目の学長で、短期間、親戚を頼って熊本の小学校(戦争中だから国民学校か?)に通ったことがあるらしい。熊本は性に合わなかったらしく、色々面白おかしく話しているが、そういえば、父は熊大教育学部卒で、戦後だが熊本に4年下宿したと聞いている。同年代で、この人が何をやろうとしているのか、おおよそわかるけれども好かん、ということだったのかもしれない。

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー

京大美学の同窓生を集めた阪大美学各講座の初代教授たちのなかで山崎正和は一番若くて、他の先生方は私が大学院修士課程にいた3年の間に、恩師谷村晃を含めて次々退官されたので、接する機会はあまりなかったけれど、華やいだ雰囲気を醸しだす人たちだったのを思い出す。

私は修士課程を終えてすぐに1年間ドイツに留学させてもらったので、留学前と留学後で、阪大美学科の雰囲気ががらりと変わった、という風に認識している。岡田暁生や伊東信宏は美学科初代教授陣が現役だった時代の学生で、増田聡や大久保賢は、この先生方が退官されてから阪大に来た。(山崎正和も東亜大学に誘われて停年を待たずに1995年に退官した。)

山崎先生の父方は土佐の鄕士、代々藩医だったそうだから、医者学者の家の人だったんですね。