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アジアの半島問題の歴史的深度

ATMを求めて連休の谷間にイオン・モールに行ったら、駅から続く歩行者専用道路を家族連れがのんびり歩いて、随分快適な空間であることに気付かされた。

東浩紀は随分前からそう言っていたが、郊外のショッピングモールは、もはや「ファスト風土」というような「失われた20年」のデフレ・スパイラルの象徴とは異なる何かに変貌しつつあるのではないかと思った。

そして、ふと、このようなショッピングモールでゴールデンウィークを過ごしながら、同時に、「国際的緊張の高まり」が報道される状態は、核の脅威を先方がちらつかせているからといって1940年代の総力戦のアナロジーで考えるのは違うのではないか、むしろ、1960年代の高度成長期に勃発したインドシナ半島の戦争とのアナロジーで捉えていいのではないか、と思いついた。

私たちは、ポストモダンの語を受け入れるにせよ受け入れないにせよ、このところ、現在の出来事を1960年以前の「遠い過去」と照らし合わせて恐れるのが思考の習慣になりつつある。1990年代のヨーロッパのグレゴリオ聖歌ブームのなかで、北米主導のグローバリズムと中東の対立を「中世」になぞらえて「帝国」の復活と形容したり、「維新」という明治の王政復古や昭和前期の青年将校の未遂に終わったクーデターを連想させる語彙で日本経済の停滞と再生へのプログラムを飾ったり、そうかと思えば、こうした動きを庶民の目線で批判するときには、総力戦・総動員という20世紀前半を特徴づける「(新)体制」の復活もしくは強化を警戒する構えになる。

でも、私たちの消費行動は、本当に1960年代の向こう側を参照しなければ説明できないほどに変化しつつあるのだろうか。実は私たちは相変わらず1960年代から地続きの場所にいるのではないか。

だから安心しろ、というのではなく、この程度では「向こうの世界」にアプローチすることができないくらい1960年代以後に築き上げられたものは頑強だ、というのが、一番恐ろしいことではないのだろうか。

その実体は、ごく単純に、「団塊世代」という数で前後の世代を圧倒してしまえる層の問題に過ぎないかもしれないけれど……。

ベトナム戦争反対は日本の左翼運動のなかで唯一、ウーマンリヴと並んでまともだった、みたいな総括を見直す近い過去の再検討が、遠い過去を呼び出すよりも、むしろ大事なことではなかろうか。