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制御された乱数

ポケモンGOは、リアルな地図(理念的には地表全体に広がり得るはずの)をサイコロに見立てるスロットマシンなわけですが、このスロットマシンが面白く遊べるのは、あらゆる可能性が等しく起こりうるようなエントロピー極大の状態にユーザーを突き放すのではなく、細かく確率を制御しているからだろうと思う。

20世紀は「偶然」という概念を発見して、この概念の上にシニカルな世界観を立てようとした面があって、「言語論的転回」は、森羅万象が偶然でしかない、と言い放つのに恰好の道具立てだと思いますが、ドーキンスが進化は何ら神秘ではない、と手を変え品を変えして啓蒙するのは、生物がどういう成り行きで現在のようになっているかを説明するときに(それが進化論ですよね)、エントロピー極大の偶然を持ち出すのはオーバースペックである、ということだと思う。

ヒトという生き物は、純然たる偶然には耐えられないし、ヒトが経験している世界は、たぶん、そのようにはなっていない。

「言語論的転回」は、どうしても、無限というブラックホールや恣意性・偶然性を呼び出すことになって、だから、これに感染すると中二病的な思弁に遊んで、遊牧(ノマド)か、さもなければ引きこもり(僧院)か、という二者択一を迫られているように感じてしまったり、無限遠点の未來には破滅しかないのか、いや、そうではなく永久革命に身を投じることで破滅に抵抗することができるのではないか、と、宗教的かつ思弁的なヴィジョンに取り憑かれてしまったりするのだろうけれど、たぶん、何万年経っても、そういう風にはならないと思う。

エントロピー極大な偶然を生物の進化の考察にとってはオーバースペックであると考える生物学の論法を見習って、無限という概念は人類(生物?)の思考・経験の外側に括りだしてしまったほうがいいのかもしれない。

ひょっとすると、最近話題の「思弁的実在」というのは、そういう話に別の方向からアプローチしていたりするのでしょうか?