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人類愛を説得する

今年も授業でハイドン「天地創造」の話をせねばならない。

去年はかなり丁寧に曲の成り立ちや台本・楽曲構成を説明したのだが、学生さんの食いつきがいまいちだったので、今年はできるだけ広く大きな文脈にこの曲を置いてみようと思う。

ヘンデル「メサイア」のハレルヤ・コーラスと人類誕生の第6日の合唱を聞き比べるのはありがちなアイデアだろうと思うが、冒頭の「光あれ」の効果については、思い切って、同じ調だし、ツァラツストラの輝かしい日の出のC-durにつなげてみようと思う。そしてここまで射程を広げると、バリトンのレチタティーヴォに導かれて世界の混沌が秩序へと転回する構想を、ハイドンの弟子ベートーヴェンの第九と比較するくらいの大技を仕掛けていい感じになると思う。

で、以前から、ダールハウスが「魔笛」と「天地創造」を歴史の奇跡として「人類愛」(ダールハウスは fraternite ではなく philanthropy の語を使う)に手が届いた音楽だ、と形容したのが気になっていたのだが、若い頃のムーティのザルツブルク音楽祭での演奏をLDで見直したら、アライサの独唱が「魔笛」のタミーノそっくりに Liebe の語を歌っている箇所が見つかった。

つまり、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンそれぞれの畢生の大作を、大きな山の頂を結ぶように連結する話を組み立ててしまおうということです。「天地創造」を語るには、そういう大きな文脈(山脈の地図?)が要るだろう、と。

このレヴェルで大きい話をするときは演奏の「格」が問題になりそうで、あれこれ探したが、メサイアはロンドンで演奏している映像が欲しいのでコリン・デイヴィスしかないだろうと思われ、「天地創造」のムーティの他に、歳を取ってからシカゴで第九を指揮しているムーティの映像が見つかった。で、ツァラツストラは、古いけれどもカラヤンの映像は圧巻で、ただならぬ事件が起きている感じがありますね。

儀式性とphilanthropyが両立したコンサートを主催できる指揮者というのは、やっぱりあまりたくさんいないような気がする。デイヴィス、ムーティ、カラヤンはOKだけれど、クライバーは父の影と一生格闘したパーソナルな人で、人類を背負っている感じがしないし、そもそもこの種の作品を指揮していない。バーンスタインは聖書を oratio するのが似合わない。(彼のミサは今回取り上げる系譜のさらに外部にあると思う。)その後の古楽系以後の人たちになると、オーケストラの演奏スタイルの個性が前に出て、指揮者は演奏グループのメンバーのひとり、リーダーというより「仲間/同志」に見えてしまう。(ドゥダメルがツァラツストラを指揮している映像が複数見つかったけれど、申し訳ないけれども論外という気がしてしまった。パッパーノもピンと来ない。)

クラシック音楽がグローバルな「音楽の国」を標榜する時代になると、古典派/ベートーヴェン/ブラームスよりワーグナー/マーラー/ラヴェルを中心に据えた方が都合がいいのだろうけれど(そして古典派/ベートーヴェンはHIPなピリオド・アプローチで歴史的な遺産として「観光」されるしかなくなってしまうのも仕方がないのだろうけれど)、かつてヨーロッパ原産の人類愛をオーケストラと合唱が高らかに歌いあげる時代があった。メサイア/天地創造/第九は、そんな風に、音楽祭が音楽祭らしかった時代のジャンルなんでしょうね。

今の学生さんたちにこういう話をすると、かつて、フルトヴェングラーを熱く語る年長者に私たちがうんざりしたのと同じように、アナクロな感じを与えてしまうかもしれませんが。デイヴィス、ムーティ、カラヤンが活躍したのは、今の大学生が生まれるより前ですから……。

でも、日本だって、市民合唱団の「第九」が広まった1970年代は、渡辺裕が『聴衆の誕生』で素描したような「新しく柔らかい聴衆=消費者」誕生の前史というだけでなく、既に「前衛」から転向していた作曲家たちによるディスカヴァー・ジャパンなご当地カンタータが量産されていたのだから、philanthropy に似た何かを合唱とオーケストラで歌いあげる欲望が顕在化した時代と見ることが不可能ではないように思う。大栗裕の大証100年や聖徳太子讃もそうだし、「ヒロシマを鳴り響かせる」も、きっとそういう系譜だと思う。

吉田寛は音楽消費者論の渡辺裕の弟子だが、彼の父、吉田修が取り組んでいた自民党の農政は、どこかでそうした phlanthropy の契機に直面していたのではないだろうか。「自民党と農民」といえば田中角栄なのだし。

渡辺裕はのちにこのあたりを取り扱うために『歌う国民』という本を出したが、吉田寛の「音楽の国ドイツ」論にしても、philanthropy の契機を「国民 nation/ナショナリズム」に回収するのでは不十分だろう。「国民/ナショナリズム」と言ってしまうと、「慈善」(philanthropyがこう訳されることもあるらしい)の方向性が薄くなる。

カトリックの「僧院」を強調する吉田寛先生は、喜捨・慈善をどう考えていらっしゃるのだろう。以前からの私の持論である彼の「劇場」の取り扱いの弱さに加えて、機会があればお伺いしたいところである。

[追記]

さらに言えば、「歌う国民」というスローガンの「歌う」のほうも、この概念の外延が曖昧なところが弱いのではないだろうか。

「第九」から「復活」や「グレの歌」に至る「音楽の国ドイツ」の合唱を伴うオーケストラ音楽はカンタータ交響曲(「歌う交響曲」ですね)と呼ばれるわけだが、この種の音楽はしばしばオラトリオ音楽祭で上演されていたし、今回、「天地創造」と「第九」を比較して、第九のバリトンのレチタティーヴォは、カンタータというよりオラトリオの語り手に近い役割を果たしていることに気がついた。(受難曲は、いわばルター派のオラトリオだと思うし、コラールを歌うバッハのカンタータにおけるレチタティヴォとは何なのか、ということも、いつかちゃんと考えないといけないかもしれない。)

oratio = 演壇からオーディエンスを説得する、という態度が装填された合唱作品の系譜がある、ということだと思うのです。

(奇しくも、イエズス会がこの島に伝えた「おらしょ」は長崎の隠れキリシタンの村に今も伝承されていて、たぶん日本で一番偉い音楽歴史学者の皆川達夫先生がこれを発掘した。)

「歌う」国民という概念は、「演説・説得する」国民との関係を考えた方がいいんじゃないか。現在では象徴と位置づけられている国家元首が古くからの大和言葉による歌(和歌朗詠)の家元であるこの島では、「歌う」所作に比べて「演説・説得」という行為が手薄である。渡辺裕の「歌う国民」という概念は、そのような、いかにも誰かが言いそうな日本人論に接続していいのだろうか?