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コンテンツホルダーの威力

JASRACが京大に突撃した件は、式辞で総長が歌ったわけでもなく、ボブ・ディランのCDを流したわけでもないのに「音楽」著作権の管理団体が登場した点が異様に見える。

ボブ・ディランの楽曲の権利を保有しているのがどういう団体で、その団体がどういう方針で動いているのか私は知らないが、ディズニーやジャニーズ事務所は、ネット上に掲載された「歌詞」を片っ端から削除させる形で彼らの「コンテンツ」を囲い込むのが知られている。JASRACの担当者は、その種の「歌詞」ごとコンテンツを囲い込むビジネス・モデルのコンテンツホルダーとのつきあいが多く、そうした事例と業務としての整合性を保つために京大へ突撃せざるを得なくなったのではないか。

報道は音楽著作権に関する法律問題にフォーカスされて、実際こうなると弁護士なんかが出てきて、法的な折衝になるのかもしれず、それはそれでやればいいとは思うけれど、せっかく第三者が野次馬的(「観光」的?)にツッコミを入れるんだったら、そもそもディズニーやジャニーズ事務所のやり方がどうしてまかり通るのか、という、商慣行を問題にしたほうがいいんじゃないか。

言葉(詩)は、音楽に取り込まれたとたんに、言葉だけを引用したとしても「楽曲」の引用とみなされる、というのは、別に「うた」をめぐる一般的・普遍的な態度ではないし、そのような特殊な解釈にもとづく権利処理ができるように法律が整備されているのは、そもそも著作権法なんて民間の経済活動をめぐる法律に過ぎないのだから、単に、そのほうが都合が良いと考える勢力がいて、その人たちの声がでかい、力が強いということだろう。

やり過ぎを抑制できるくらいにニッポンの行政府・立法府が強いかどうかの問題でしょう。

ことの事情は、100年前に、関税等をめぐる不平等条約を撤廃するのが閉じて自律した法論理の問題ではなかったのに似ていると思う。

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やりすぎたら叱られる。日常生活の常識に相当する仕組みが社会の制度設計にも含まれているはずです。教育がひとを道徳的にする、というのは、例えばそうした社会の機微を伝えるのに、教育は格好の機会だからだと思う。

誰がJASRACを叱るのか?

[追記]

  1. 京大総長は、ボブ・ディランの詩を朗読するだけでなく歌ったらしい、という発言を見かけたが、それは事実なのだろうか?
  2. ディランの詩のあとで引用されている茨木のり子(2006年没)の文学作品としての著作権処理はどういう手順になるのだろうか?
  3. 大学人の振る舞いとして考えたとき、前年に微妙な騒動を巻き起こしながらノーベル賞を得た人物の詩を引用して、そこに茨木のり子をつなげる、という言語的パフォーマンスは、2017年の新入生にちゃんと届く、アピールするものなのだろうか? (私はピンと来ないのだが。)
  4. この「式辞」という言語的パフォーマンスの記録は、著作権の権利処理の火種になりがちなインターネット上での公開、という面倒な手間をかけるほどの意義があることだったのだろうか? そしてこの、アクチュアルであろうとしていまいちうまくいっていない印象を受ける言語的パフォーマンスは、日頃からJASRACに不満を抱いている勢力が、「音楽著作権における悪の枢軸」との闘いの狼煙としてシンボリックに打ち出すに足るものなのだろうか?

大学広報担当者は、いまいち何も考えずに、前例踏襲でこの式辞を大学公式サイトに公開したのではないかと勘ぐってしまいたくなる感触があり、その成り行きは、JASRAC担当者の、いまいち何も考えていない自動処理っぽい業務遂行と、むしろ、お似合いに同水準にしょぼい感じがしないでもない。(総長が今年はディランと茨木でいこう、と考えたのも、なんだかなあ、という感じだし。)

結果として、SNSにありがちな、すぐに凪になってしまう一発芸のパターンにはまってしまいそうなところが、少々残念な気がするのですが、このあたりを、さかんにいいね/リツイートした人たちは、どのようにお考えなのでしょうか? そんなことで、強大なコンテンツホルダーと闘える(=「世界と闘える」)のでしょうか?

大げさな「事件」に仕立てなくても、担当者同士が話し合って穏当な落としどころを決めれば済む話なんじゃないのかな。

むしろ、こういうしょぼい話で騒いでいると、大きな「問題」に落ち着いて取り組む余裕がなくなっちゃうよ。「京大総長」とか「JASRAC」とか、そういうのは2017年の「観光客」の足を止めるほどのアイテムではない小者ではないかという気がします。近くにいる誰かがさっさと注意すれば済むことだ。