見聞録

関西音楽新聞の最新号が届いて、今回から、というわけではないのかもしれないが、批評欄が「見聞録」という表記になっていることに気付く。

興行の主催者が販売する入場券を消費者が購入した段階で売買契約が成立しており、その契約が興行という形で遂行されるのは私的な経済活動なのだから、法的に不当なことが行われていたり、倫理的に糾弾されることがおきているのでない限りは、当事者間の合意だけが有効で第三者がとやかくいう筋合いのものではない。第三者にできるのは批評・論評ではなく、報告・レポートでしかない、というような考え方なのだろうと思うけれど、

この論法でいくと、関西のクラシック音楽は、もはやパブリックであることを止めたことになりそうですね。

地元の自治体の公的な援助が打ち切られた途端に、「だったら好きなように商売させてもらいます」と開き直るのは、イメージとしての大阪らしくはあるけれど、安かろう悪かろう、にならない歯止めをどこに設けるつもりなのか、お手並み拝見ですね。

関西音楽新聞は、もともと、関西交響楽協会(関西交響楽団/大阪フィルの母胎)が発行したPR誌で、長らく、事実上、野口幸助がひとりで作っていると言われていた。関響/大阪フィル(そしてかつては関西交響楽協会に属していた関西歌劇団)の情報が手厚いとはいえ、単なる興行団体のPR以上の内容が盛り込まれたのは、「大阪にオーケストラを創る」ためには、楽壇と呼ぶしかないような場・環境の整備が必要だったからだが、そのようにして創られた大阪の(すべてが民間団体である)オーケストラ、オペラ、音楽ホール、音楽学校等々が経営の上で分離・独立した末に、(クラシック)音楽はパブリックな文化である、という理念が消えてしまったかのように見えますね。

世界的に見れば(そして「世界」とのリンクを強めようとしているように見える東京では)、むしろ、自立・民営化に舵を切ったがゆえに、「補助金漬け」とは別の意味でのパブリックな文化とは何か、ということが、理論的にも実践的にも強く意識されざるを得ないのが21世紀の状況だろうと思うので、こういう形に開き直るのは、かなり、まずい兆候なのではないかという気がします。

関西のクラシック音楽が、パブリックな文化として、それこそグローバルに稼働しているクラシック音楽界に背を向けて、内向きに扉を閉ざそうとしているかのように見えてしまうわけですが、そういう風に言論を編集して大丈夫なのだろうか。